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千寿の楽しい歴史
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江戸時代の旅を想う(続き)・千寿の楽しい歴史
江戸時代の旅を想う

「江戸時代の旅人は、往来手形(1)、手帳、矢立、手ぬぐい、浴衣、紙子(かみこ:紙で作った着もの)などの着がえ、雨具、扇子、油紙、煙草、鏡、糸針、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付木、麻縄などの道具を振り分け荷物にして旅をしました。

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長旅で往来手形の次に大事なのが“草鞋”(わらじ、藁で編んだサンダル)でした。

当時は道が悪かったので草鞋の痛みがはげしく、予備のものを持って旅をするのが普通でした。

太平記にも『御足かけ損じて草鞋みな血に染まれり』とあることから、当時の旅人が草鞋の緒にすれて足を痛める『わらじ食い』に悩まされたことがわかります」

電気の資料館「電気がなかった時代の暮らしと知恵」

1)往来手形:江戸時代、関所を通過する際に示す身分証明書。庄屋・名主・檀那寺などが発行した。

明和八年(1771) 、広島藩厳島の中之町住人が蓮教寺から受けた往来手形にはこう書かれている。

「厳島中之町の井口屋善助と同徳右衛門がこのたび諸国の神社仏閣へ参詣するため出願した。
この者たちは真言宗当寺(蓮教寺)の旦那に間違いなく、関所を反対なく御通し下さい。

仮に日が暮れれば旅籠に一晩泊まるよう命令して下さるよう、万一病死致しましたならば、こなたへのお届けは及ばず、そちらの作法にてなされるようお願いする次第です。よって証文くだんのごとし」

往来手形は「供養依頼状」という説もあり、このほか原則的に風姿容貌まで記した「関所手形」も必要だった。

18世紀初めに幕府は江戸防衛のため江戸に通じる街道を中心に9か国50余か所に関所を置いたが、通過する関所の数分、関所手形を用意(もちろん往復分)しなければならなかったという。

京都観光情報館訳の八隅芦菴編著「旅行用心集」(1810年、文化7年版)の第一条は「初めの一歩〔足の点検〕=旅の初日は、とくに静かに足を踏みしめよう。

草鞋が足になじんでいるかを確かめるようにするといい。足を痛めたら旅のあいだ苦しむことになる。足は大切」とある。

第二条は「出発前〔荷は軽量〕=旅行に持っていく物は、懐中物のほかは、なるべく少なく。持ち物が多くかさばるとわずらわしい」。

小生は江戸時代の商人や侍の旅は1~2人の「個人旅行」かと思っていたが、多くは家来、弟子、下男、丁稚などが荷物持ち(兼ガードマン)として同行したから3~5人ほどの「グループ旅行」だったようである。

さらに必要に応じて馬方や人足、駕籠かきなど「旅客貨物運送人」を駅(宿場)の問屋場(2)で雇うこともあったから結構にぎやかだったろう。

お伊勢参りとなれば文字通りの「団体旅行」だ。

2)問屋場(といやば):江戸時代の街道の宿場で人馬の継立などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。

どこに泊まったのか。

<一般の旅行者が宿泊するところには旅籠屋(はたごや)と木賃宿(きちんやど)がありました。

旅籠屋と木賃宿との違いは、食事が付いているか付いていないかの違いです。

旅籠屋では夕食と朝食を出し、店によっては昼食の弁当を出すところもありました。

一方、木賃宿は、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらいます。

「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭(きせん)を意味しています。

江戸時代以前には木賃宿が宿泊の本来の姿でしたが、庶民の旅が盛んになるにしたがい、次第に旅籠屋が増え、宿代も天保年間(1830~1844年)には旅籠屋は木賃宿の5倍以上もするということで、木賃宿は安宿の代名詞となってしまいました。

場所も宿場のはずれなどにありました。

ちなみに「本陣」というのは大名行列用の宿泊施設で、いわば“団体専用旅館”。

安い、まずい、汚いの三拍子で、庶民はまずこれは利用しなかったという。

旅館で旅人は風呂に入り、ついでに洗濯するのだろう。

風呂の順番は早い者勝ちだから旅人は「早出、早着」できれいな風呂に入りたい。

まあ、風呂場は戦争状態になって、旅館の人が「お風呂をどうぞ」と案内するが、その順番を間違えようものなら大騒ぎだったという。

こうしたごたごたやら荷物をかかえながら芭蕉翁も旅を続けたのだろう。

(終了)

by kusennjyu | 2011-07-09 03:30 | 旅行記
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