千寿の楽しい歴史
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江戸の子育てに学ぶ(3)・千寿の楽しい歴史
江戸の子育てに学ぶ(3)

5.おれもおかかのところへ、じじ(字)書いてあげやうねべ

平太夫はいつも日記や手紙を書いていたし、また柏崎からの鐐之助の親からの手紙を読んできかせていたので、鐐之助も自然に読み書きに関心を持つようになった。

満3歳の頃には、平太夫が日記を書くそばで「おれもおかかのところへ、じじ(字)書いてあげやうねべ」と言って、何やら紙に墨をつけている様が記されている。

満7歳になると、手習いの師匠のところに通うようになった。

何人かの手習いの生徒がいるなかで、朝早く行くと今日は一番だったと喜んだり、手習いが終わると子供どうしで、初茸採りに行ったりしている。

ある日は夕方に数人の男の子たちを連れてきて、寺子屋の真似をして、習字をするから、墨をすってくれか、紙を出してくれ、などと大騒ぎをし、半紙に一字ずつ書いては近所のおじさんの家まで見せに行ったりしている。

手習いも、このような子供同士の楽しみに満ちたものであった。

6.我に『育てよ』との天命なり

冒頭で欧米からの来訪者が「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、深い注意が払われる国はない」と言い、同時に「日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持ってゐる」という観察を述べていることを紹介した。

鐐之助が育てられた過程は、まさにこの観察と一致している。

こうした独特の子育ては自然に生まれたものではなく、江戸社会の中で、多くの識者が子育ての経験知を蓄積し、かつ広めてきた結果である。

たとえば、石田梅岩を始祖とする石門心学は、18世紀半ばには全国で教化活動を展開し、日常生活を送る上での心得を熱心に説いた。

その中には、子育ての心得も含まれていた。



石田梅岩の門下に、慈音尼蒹葭(じおんに・けんか)という尼僧がいた。

慈音尼は、我が子を心を尽くして育てるのが人の道である、と説いた。

自分の子だからと思って、愛に溺れて心を尽くさなければ、天命に背き、災いのもとになる、「わが子なりと思い、勝手するは、人欲の私なり」「わが子と雖(いえど)も天の子にして、我に『育てよ』との天命なり。

天命を重んずる心からは、子に慈愛をつくさずんばあるべからず」と教えた。

自分が作った子供なのだから、溺愛しようが放任しようが、自分の勝手である、というのは、誤った私心である。子供は天から「育てよ」と命ぜられた「授かりもの」であり、親としてその天命を果たすのが人としての道である、というのである。

7.随分可愛がり、愛するのがよい

石門心学の普及で中心的な役割を果たした手島堵庵(てじま・とあん)は教化対象を子供にまで広げた人物である。

宝暦9(1759)年に著した『我つえ』では、あまりに厳しく育てることは良くないとして、

どうしてかというと、「愛しているから、このように厳しくするのだ」と思う子は少ないものだ。

結局、ひがむようになり、恩愛が失われ、親子の間が疎遠になり、不孝者になることが多い。

随分可愛がり、愛するのがよい。

しかし幼少の時から、嘘や偽りを言うこと、この一事だけは決してさせてはいけない。

幼いときは何をしてもかわいいから、嘘を言っても知恵があると思い、褒めそやすようなことは大変よくないことだ。小児の時から、嘘だけは、絶対に悪いことだと思うようにさせなさい。


江戸時代後期の国学者・橘守部(たちばな・もりべ)は、文政11(1828)年に著した『侍問雑記』で、「子は手塩にかけて親しく養ってこそ親しみも増し、親のほうから近付いて睦まじくしてこそ尊ばれもする」と書き、次のような態度を勧めている。


その子の幼い時から、朝晩、側近くに親しく寄せて、おかしくもない子どもの話も、面白そうな様子で聞き、年齢相応のことを話して聞かせ、楽しみも共にし、打ち解けた遊びも共にするようにして、

大きくなってからも、ひたすら親しみ睦まじくすることを、親の方から習わせるように。そのようにすれば、悪いことがあった時に叱っても、たまのことだから、快く聞き入れるだろう。

まさに鐐之助が育てられた環境そのものである。

(次回に続く)
by kusennjyu | 2011-07-11 09:28 | 歴史学習会 |Topに戻る