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千寿の楽しい歴史
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伝説 祇園さんと胡瓜・千寿の楽しい歴史
伝説 祇園さんと胡瓜

私たちの瀬高には、祇園さんとよばれ親しまれている神社があります。

祇園さんは、京都の八坂神社の分霊(祭神の霊を分けてまつること)で、上庄に神社が建てられたのは平安時代末期の安元2(1176)年、80代高倉天皇の頃と伝えられています。

社記(神社のことについて書かれたもの)によりますと、宇都宮弥三郎という人の子供に、小太郎藤原中次・重国の兄弟がおりましたが、この兄弟が祇園宮の分霊を持って京都から筑後地方にこられました。

その時、弟の重国が持って来た藤の鞭(むち)を三つに切り、この藤が繁茂(草木などが生いしげること)する所に、分霊を永久に鎮座(神霊がその地に鎮まる)させますと神様に誓われて、一つは、柳川、一つは当地上庄に、他の一つは久留米に植えられました。

そのうち、柳川、久留米の二本は枯れて、上庄の藤一本が繁茂したのでここを鎮座の場所に定められたと言うことです。

楠の木を神木として社殿(神社のやかた)を本宮の京都の方角、東向きに造られました。その日が安元2年6月11日と言うことです。社殿は立派で美しい建物でしたが、その後、度々の戦火にあい焼失したと言われています。

柳川藩の初代の藩主である立花宗茂は特に、祇園さんへの信心が篤く、慶長2(1597)年、朝鮮出兵から帰国された後、社領(神社の領地)として50石寄進されました。

また、関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に味方したため柳川領を没収され浪人となられ、その後しばらく奥州棚倉(福島県南部東白川郡棚倉)に行かれましたが、元和7(1621)年に柳川藩主として再び柳川に帰られ、その翌8年5月に祇園宮を立派に再建されたと言われています。
初め東向きであった社殿が現在のように改築されたのは、その時と言うことです。

7月には賑やかな祇園祭が行われますが、祭りの期間中は、その氏子(同じ氏神を祭る人)は、胡瓜を食べません。

博多でも、祇園山笠の間は胡瓜を食べようとしませんが、これは博多の人々の氏神(住んでいる土地の神)である櫛田神社の神紋(神社の印)が胡瓜の切り口に似ているからだと言われています。

では、私たちの瀬高の氏子の人々が胡瓜を食べようとしないのはどうしてでしょう。

伝えられている話によると、祇園さんの使いが河童であり、河童の好物が胡瓜であるからだということです。胡瓜を食べて水に入ると河童におそわれると言い伝えられています。

また、一説には、祇園さんの祭神である素盞鳴尊(すさのうのみこと・天照大神の弟。出雲の国でやまたの大蛇を退治したことで有名)が、あるとき、賊(ぞく)に追われて進むことも退(しりぞ)くこともできなくなり、胡瓜の畑の茂みにとっさに身を隠されて難を逃れることが出来たので、その恩義にこたえるため氏子は胡瓜を食べないと言うことです。

八坂神社縁起・南筑明覧
角田嘉久著「柳川と筑後路」より。

   ふるさとの昔ばなし「瀬高の民話と伝説」-瀬高町教育委員会出版より。
by kusennjyu | 2011-07-18 10:14 | みやま市の民話と伝説
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