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千寿の楽しい歴史
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2011民話 大人形さんと大提灯・千寿の楽しい歴史
民話 大人形さんと大提灯

上庄の祇園祭りで、一番にぎやかに行われるウウ人形(大人形)さんの股くぐりの神事が、祭りの最終日に当たる7月24日正午から、翌25日正午まで夜通し行われ、子供づれの善男善女の参拝者によってにぎわいます。

この神事について伝えられている話によると、柳川藩主立花宗茂は、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦において、西軍について味方して戦ったが、西軍の敗戦により、東軍の大将である徳川家康に柳川の領地を取り上げられ浪人となります。その後、奥州棚倉1万石を与えられ、そこに移り住みました。

その頃ある夜、宗茂は夢の中で、宗茂軍と家康軍の大軍との間に合戦が始まり、激戦の最中に祇園宮の神様が現われて仲裁に入られると、今までの合戦がいつしかおさまったところで、夢からさめたそうです。

宗茂は、「不思議な夢を見た。これは吉夢にちがいない。」と思っておられると、それが正夢となり、その後、程なくして、旧柳川領を賜わり再び柳川へ帰ることが出来ました。

このように慶長5年、柳川を出てから、元和7(1621)年、21年ぶりに旧領に帰ることが出来たのは、当時としては非常にめずらしいことです。

柳川に帰られた宗茂は、翌年の元和8年5月に、荒れ果てていた祇園宮を再建されて、大人形の神事をはじめられたと言うことです。

大人形は、正面に向かって、右側に八幡太郎義家、左側に阿倍貞任・宗任(1年毎に交替で立てる)、中央に祇園の社壇(神をまつる社)があります。

これは家康と宗茂とを結んだ祇園神の働きをあらわしたものと言われ、また、八幡太郎義家を宗茂に、阿倍貞任・宗任を家康になぞらえたものと言われています。

以前は、大人形の顔は、各家の皇太神宮の御札を集めたもので、八女郡岡山村(八女市)の人形師の所に、大人形の顔や手の製作を頼みに行っていました。

明治以後、宮原孫次郎氏が昭和16年まで製作されていましたが、その後辞退されて製作は途絶えました。人形の原形は、八坂神社に奉納されました。

現在、絵馬堂に各家庭より奉納された大人形の顔や手を共に保存してあります。
人形師は、依頼された大人形の顔や手を作るに当たっては、毎朝心身ともに清めて、家族とは別の部屋で自炊し、女人禁止をして、祗園宮より持参された皇太神宮の御札を1枚1枚丁寧に張り、顔の原型に合わせて製作されたと言われています。

現在の大人形の顔や手は、上庄の彫刻師・山口唯二郎氏が、昭和25年、神木の楠で製作されたものを使用しています。

大提灯の由来については、藤原中次・重国の兄弟が京都の祗園宮の分霊(祭神の霊を分けてまつること)を奉じて上庄に来た時、上庄に白武三郎兵衛という貧しい武士が住んでいました。

この人は、日頃信仰心の厚い人でした。兄弟が当地に来ることを知り、たまたまその日が雨の降る日であったので、夜、粗末な提灯を下げ、破れた傘をさして兄弟を出迎えたと言われています。

また、一説によりますと、元和の頃、当地に洪水があり祗園宮の御神体が流れた。その時、白武三郎兵衛は、流れる御神体を追いかけ、上庄の南西にあたる三橋町棚町で御神体を拾いあげて御守りしたということです。(現在、御神体の足を洗ったという「足洗」という地名があります。

その御神体をお迎えした時の提灯と傘が破れていたと言われています。町内の人々は、三郎兵衛の真心のこもった行いに感心して、彼が使用した提灯や傘にちなんで奉納したのが始まりと伝えられています。

また、これを製作するには、約50日以上の日数を要し、人物・風景・花・鳥等を使用する材料は、魚のうろこ、魚の皮、虫の羽、貝殻・木の皮等が使用されています。

大提灯の網目は、提灯の破れをかたどり、その上の短冊は、破れた傘を表したものと言われています。

現在は、氏子の若い人達で製作が行われ保存されています。この大人形と大提灯は、昭和31年、福岡県の文化財に指定された貴重なものです。

八坂神社縁起   宮武省三著「九州路の祭儀と民俗」
戸次求馬著「南筑明覧」 福岡県指定文化財大人形・大提灯報告書

 ふるさとの昔ばなし「瀬高の民話と伝説」-瀬高町教育委員会発行より。







by kusennjyu | 2011-07-19 10:32 | みやま市の民話と伝説
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