2011伝説 林操(みさお)の仇討(あだう)ち・千寿の楽しい歴史

伝説 林操(みさお)の仇討(あだう)ち
林操の仇討ちは、江戸時代の初め、慶長―元和年間(1596-1623年)の事件として語り伝えられています。
柳川・山門地方では、ただ1つの仇討ち物語ですから、明治時代以降、特に昭和時代中期から太平洋戦争当時は、婦人の鏡(模範)としてもてはやされました。
その頃、柳川藩の殿様の家来の娘に、林操(みさお)と言う美しくて気立てもやさしく、また、武家の娘として文武両道にすぐれた若い女性がいました。
まだ16歳になったばかりでしたが、父の同役の息子・京都(みやこ)幾之助(いくのすけ)との婚約も整って、結婚式を目前にひかえていました。
そんなとき、操に思いを寄せていた宮川(みやがわ)右内(うない)はそのことをうらみ、幾之助と京都三左衛門(さんざえもん)が、福島(今の八女市福島)に福島城建設の様子を見学に行ってのその帰りを船小屋近くの尾島(筑後市)の松原で待ち伏せして、幾之助父子を鉄砲でうち殺しました。そして、その罪をおそれ、その夜のうちに逃亡して行方不明になりました。
操は、将来、夫と誓った幾之助の無念をはらすため、柳川藩の役所に仇討ちを願い出ました。かたきの宮川は柳川藩一番の武芸者なので、両親からも、女の細腕では本望をとげ討ち果たすことは思いもよらないことだ、ただ幾之助父子の霊を弔(ともら)うことが大切だ、といさめられました。
それでもあきらめきれなかった操は、来(らい)・国光(くにみつ)の太刀1本を頼りに仇討ちの旅に出かけました。
両親にもいわずに家を出るとき、家の門のそばに、こっそりと柳の枝を逆さに地にさして・・・・
「私の念力が通じて見事仇討ちがとげられるならば、この枝はかならず生い茂って大木になり、もし不運にしてかたきに討ち果たされるようなことになれば、この枝枯れ果てても仕方ない。」
と観世音菩薩に祈願しました。
―このことが、後世、柳川市の柳町・柳小路の地名の由来になっているとのことです。-
操のかたきを求めての旅は、柳川を出発して久留米の高良山玉垂宮に参拝し、神のご加護(守り助けること)を祈念し、豊後(大分県)、豊前(福岡県)より本州・長門(山口県)、山陰道(島根県~鳥取県)を周り、但馬(兵庫県)、丹後・丹波(京都府)、大阪、越前・越後(北陸地方)、三河・尾張(東海地方)の諸国を遍歴しました。
最後に、四国に渡り、放浪10年、困苦(こんく)・欠乏(けつぼう)に負けず、阿波の国、徳島城(徳島県)近くの鹿野ケ原でかたきを討ち取り本望をとげ、急ぎ柳川に帰り着きましたが、仇討ちの許可を下さった藩主田中家は断絶していましたので報告もできませんでした。
両親には親不幸をわび、仇討ちについてのできごとを詳しく報告し、両親と共に婚約者幾之助の墓前にかたきの首を供えて供養しました。
その後、操は出家して尼僧になり、清水山のふもとに草庵を建立して、先祖や京都(みやこ)父子、ならびにかたきの宮川右内の供養のため、千体仏を自分できざんで弔いました。
83歳で生涯を終えたと伝えられています。千体仏堂は、今日も称名庵(しょうみょうあん)の名で残っています。
操は、先祖の墓所のある上庄西念寺に葬ることを遺言したと伝えられています。
「列女 林操」柳川市昭和堂書店刊」 浅川漏泉著による
(ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より)
称名庵はきじ車を売る店の上横の庵です。五百羅漢の下になります。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆を育てること。