伝説 一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)
神功(じんぐう)皇后と土蜘蛛(つちくも)の戦場は、現在の草場・大塚・女山一帯ではないかと思われます。なぜかというと、現在の草場は「戦場(いくさば)」という伝えがあるからです。
この地方には、景行(けいこう)天皇の御代(みよ)の頃から、強い勢力を持った土蜘蛛という集団が住んでいました。彼らは、田油津媛に率いられて、この地方を制覇(せいは=他をおさえつけ、かしらとなること)して、勢いを誇っていました。
当時は、この土蜘蛛や葛築目(くずちめ)の豪族(ごうぞく)などが、独自の地方国家達成に向かって競いあい、はげしく争っていました。
このような時代の動きのなかで、大和朝廷軍は、地方の豪族をせ制圧(おさえて)して、全国制覇を達成しつつありました。
そういうときですから、神功皇后は、九州で一大勢力を誇っていた土蜘蛛を制圧するために、兵を率いて、現在の大和町鷹尾に上陸しました。
戦場に向かう途中、現在の藤尾で軍儀(戦いの方法を話し合うこと)を開きました。そこは。車坂または車塚と言われています。
いよいよ戦が始まりましたが、両軍とも互いに死力を尽くして、なかなか勝敗がつきません。陽(ひ)は西に沈みました。その時、田油津媛は皇后の陣に使いを送って「明朝一番鶏の鳴くまで一時休戦しよう。」と申し入れました。
皇后もこれを承諾(願いをききいれること)しました。ところが、田油津媛の軍は女山(ぞやま)に数メートルもある城壁を築いているのです。あと西南の隅を残すだけになっていました。
多くの人々を使って、高田町の飯江(はえ)から堅固な巨石を運ばせて、残りの城壁を作りあげようとしているところでした。
このことを知った神功皇后の軍は「今、何とかしなければ不利になる。」と急いで軍儀を開き方法を考えました。
その時、軍の参謀である武内宿禰(たけのうちのすくね)が、竹皮で作った二つの笠を両手で持ってたたき合わせ、鶏の羽ばたきに似せ、鶏の鳴き声を巧みに真似てみせました。
この方法を実行しますと羽音、鳴き声に付近一帯の鶏ははや夜が明けたかと鳴き合わせたので、工事途中の田油津媛軍は驚いてあわてふためき、防ぐかまえもそこそこになりました。
そこで、待っていましたとばかりに、皇后軍が一気に攻め入りましたので、土蜘蛛軍は敗走して田油津媛はとうとう戦死してしまいました。
田油津媛の兄の夏羽が、妹を援けようとかけつけた時は既に遅く、しかたなく引き返したということです。
この田油津媛の墓は蜘蛛塚ではないかと言われています。雨の日には塚から血がにじみ出たそうです。
また、ごんげん塚は皇后軍の兵士の墓ではないかと言われています。
田油津媛が率いる土蜘蛛を滅ぼした神功皇后は、再びこのようなことが起こらないようにと、諏訪(諏訪)宮を建立して、この地を鎮めました。この諏訪宮は後に移されても本吉に鎮座したということです。
(日本書記または伝説・伝承による)
葛築目~大和朝廷に従わなかったために、景行天皇軍に討たれた葛築目は権現塚に葬られたという説があります。
武内宿禰~相撲の元祖とも言われる大和時代の強力な武人。最初の大臣で、史上最長寿の人といわれています。
ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝承―瀬高町教育委員会より。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
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