伝説 清水の観音さま
大同元(806)年、今から約1,200年前、伝教大師というえらいお坊さんが、唐の国(現在の中国)での勉強を終えて、日本に帰ってこられました。
そして、九州において仏教を広め、盛んにするところはなおかと、あちらこちらと探しておられました。
その時、瀬高をお通りになった大師はふと、東の山の中ほどに光り輝くものを見つけられました。大師は不思議に思い、山の中へと入っていかれました。
山はけわしくて、道らしい道もなく、木はうっそうと繁っています。大師は、昼でも暗い所をかき分けながら進んでおられました。ところが、道がわからなくなり、山中で迷ってしまわれました。
「これは困ったことになった。」と仏様を念じ始められました。すると、どこからともなく、一羽の雉が飛んで来て、大師の前に降りたちました。
それから、「こちらへおいでください。」とでも言うように、大師の方を振り返りながら飛んで行くのです。大師はそのあとを追って行かれました。
しばらく行くと、とある木立の中に輝く大きな木が立っていました。それは「ネムの木」という木でした。その美しく、こうごうしい木の姿に、思わず息をのみました。それに木の表面には、観音さまの姿が、大師の目には、はっきりとみえるのです。
大師はありがたく、伏し拝みながら、これこそ観音さまのお告げであろうと思われました。この木で観音さまを刻み、ここを、観音さまをお祭りする地にしようと決意されました。
早速、木がたっているままに根元の方で、うやうやしく心をこめて千手観音さまを刻み、お堂を建てられました。これが清水寺のはじまりです。
また、この木の上の方で二体の同じ観音さまを刻まれました。一体を京都の清水寺に、もう一体を佐賀県基山のふもとの小松観音に納められ、本尊としてまつられていると言われています。
その後、伝教大師の弟子の慈覚(じかく)大師という人が唐の国へ勉強に行く時、ある夜、観音さまの夢のお告げがありました。そのことを深く心にとどめて、やがて、日本に帰られた時、夢のお告げを実行するため、早速、清水山に登られました。
そして、お堂を立派に建て直されました。しかし、その後、度々の戦によってお堂は焼かれました。源氏と平氏が激しく戦った源平合戦の時は、平家に味方したということで、源氏方の大将、緒方三郎に焼かれたのです。
また、戦国時代には、佐賀の竜造寺隆信が、筑後地方に攻め込んできて焼きました。
近代になると、大正10年、ある人が放火して焼きました。
しかし、いずれの火災の時も、本尊の観音さまは焼けることがなかったと言われています。
千手観音
身体に千本のいつくしむ手と千のいつくしむ眼を持って、人々を助けるという観音さまのこと。
この像は中国から伝わったもので、初めのころは千本の手を持つ像が作られました。しかし、後には真ん中の2本を除いて、左右は20本ずつ合わせて40本の手を持つ像が作られるようになりました。
これは一本の手が25の世界の人々を救うという考えから生れたものです。40手×25で千になるところから千手観音と呼ばれるようになったのです。
それから後、42本の手を持つ観音像が作られるようになりました。清水の千手漢音像も42本の手を持つ観音さまと言われています。
岡茂政著『柳川史話』より。
ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆を育てること。