お倉の浜
私たちが住んでいた瀬高町が、日本国の起源と同じくらい昔から栄えていたのは矢部川の水量豊かな清流によって育(はぐく)まれたからです。
また、川の流れによって船を利用して食物や器物を運んだり、船に乗って旅をしたりしていました。
平安時代(1100年頃)には上庄住吉宮のあった川岸にも、室町時代(1500年頃)に、港があって賑わった遺跡が今も残っています。――芳司(ほうじ)の恵比寿神の碑――
江戸時代の初期、柳川藩の上納米(じょうのうまい)や麦(税金)を集めたり売り払ったりする建物が「在の三つ倉」(地方の三つ倉)の1つとして、矢部川下流の右岸、上庄新町に設置されました。
その荷物の積み出しや搬入の港として、お倉の浜という港が開かれました。
有明海の大潮(旧暦15日満潮時)には300石(こく)船(45トン積み)、小潮(普通の日の満潮時)には100石(こく)船(15トン積み)が出入りしたと言われています。
その頃、お倉の浜から大阪向けに出荷される上質の米は「大阪回米」として「すし」用に使われ、藩財政を豊かにしていたと言います。
それで上庄は、近くの町や村から移り住む人が多くなり、いろいろの職業の人がいて、賑やかな商店街が出来ていました。
また、矢部川のきれいな水と良い米が集まるので、酒造工場も10数ヶ所出来ました。酒造に必要な材料を作ったり運んだりする人も住むようになりました。
やがて上庄は瀬高町の中心地となり、今の瀬高橋を西に渡って坂を下りた本町、二百町、出口二あたりがメインストリートで、明治・大正、そして昭和の初めごろは、警察・学校・銀行・郵便局も軒を並べていました。
今日のように、電車・自動車のない時代は、陸地は歩くか牛馬車に物を乗せて運ぶほかありません。また、川から海に船を利用して物を運んだり旅をしたりするよりほかに交通の便はありませんでした。馬に乗ったり駕籠で行ったりする旅は、費用が高くて一般の人はできなかったのです。
交通の便がよくなると、例えば鉄道のある駅の近くや、高速道路のインターチェンジのある近くが便利なためその方に人が集まって行きます。
矢部川も、いつしか水量が少なくなって船も上ってこないようになり、上庄も交通の不便な地になり、少しずつさびれていきました。
昔の人は船の航海の安全を祈って、金比羅神社や住吉宮をおまつりしました。それが今日も港のあった川岸に残っています。
お倉の浜の跡に建つ金比羅宮。
ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。
矢部川(瀬高町上庄) 地図の中に「お倉の浜」を書き入れています。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆を育てること。