唐尾座(からおざ)
明治の初めごろ、大字小田の氏神、
唐尾八坂神社の祗園(ぎおん)祭に、余興(よきょう)として唐尾座主催の芝居が上演されていました。その俳優は、主として唐尾区の人々が祗園祭の1ケ月余り前からけいこして当日上演することになっていました。(5月1日小屋入り、6月1日奉納)
たまたま
明治4(1871)年の祗園祭に上演したものが大変、出来映(できば)えが良かったので、近隣でも評判でした。
そんなことから、その年、熊本県長洲町からの招きで興行したのが唐尾座の
旗揚げ(始めること)になったようです。その時の地域別の一座の人々は、唐尾7人、山下2人、山中2人、八女郡兼松1人、野町1人、本吉1人の合計14人でした。
その後、次第に盛んになり、
明治28(1895)年頃には全盛期を迎えました。専門の衣装方、かつら方を雇い、唐尾座の名声は、筑後地方から熊本や佐賀方面にも聞こえるようになりました。鹿児島地方までも旅興行したことがあったといいます。
その頃には、贔屓(ひいき)の女性客の金銭的援助が座の経営を大きく支え、踊って、儲けて、銀行を建てたという嘘(うそ)のような話も聞かれたと伝わっています。
全盛期の役者として、
「嵐徳三郎・中村三吉・浅尾鬼工丸(きくまる)・市川寅平・市村家吉(かきち)・中村成子(しげこ)・中村巴若(はじゃく)・坂東定市・市川恵三造(えさぞう)・浅尾玉吉・嵐甚車(じんしゃ)・市川花柳(団三郎)・市川米三郎」等がいました。
少し時代が下がって、
「尾上多三郎・坂東薪笑(しんしょう)・市川九団次・尾上多目丸・市川団三郎・実川実造・浅尾玉平・松本幸次郎」等の名があります。これらの役者は、余所者(よそもの)が多かったといいます。
唐尾座は、夏・秋の祭りや他村の祭りを目当てにけいこに励んでいました。本拠地唐尾には、上下に常備舞台が設けられていました。役者の嫁さんは、夫から踊りを習って踊ったそうです。
尾上多三郎は、お寺で修行をしたことがある人で、学問があり、やせ形で裃が似あったとのことです。
坂東薪笑は、大阪の人で、唐尾の女性を嫁にしたといいます。
松本団松と芸名が墓石に彫られている人もあったそうです。
役者は、化粧するおしろいの鉛毒のため早死にした人が多かったそうです。
このように栄えた唐尾座も、大正12(1923)年9月の関東大震災後の不景気で大きな打撃を受け、また、映画の発達等もあって、その後復興することができませんでした。今日、その役者は、1人も生きていません。
唐尾座の出し物は、創作や踊りだけのものでなく、主なものとしては、
「自来世(じらいや)」・「肥後駒下駄」・「太功記(たいこうき)」・「隅田川続俤(こちのおもかげ)」(別名・法界法)・「先代萩(はぎ)」があり、市川九団次の当たり芸は、「幡隋院長兵衛(ばんずいいん・ちょうべえ)」であったとのことです。
後期には、浄瑠璃(じょうるい)芝居の中間に浪花節入りのものも上演されたと言われています。
唐尾は、江戸時代には柳川藩と久留米藩の国境の宿場町として、また矢部川上流の山村から里へ出た最初の町として、旅館や料理屋が立ち並んで賑わっていました。
また、越前から伝わって来た紙すきの職人が製紙技術を伝えたり、役者の行き交いもあったとのことです。
「福岡県の郷土芸能」
「瀬高町水上小学校調査」
昭和46年8月古老より聞き取りを含むより。
ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。
唐尾祗園 今年の唐尾八幡神社祗園祭です。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆を育てること。
みやま市議会定例会の予定 みやまいいまち会で見られます。
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