歴史小説作家 安部龍太郎氏の先祖を考える。
立花宗茂公復権成るまでの経緯
慶長11(1606)年、宗茂40歳の時、将軍秀忠から奥州棚倉(福島県東白川郡棚倉町)一万石に封じられる。
慶長14(1609)年2月18日、柳川城主田中吉政が江戸参勤の帰途、伏見において63歳で病死した。
慶長15(1610)年、宗茂44歳の時、奥州棚倉一万石に赤館・上総山あたりの二万石が加増され、三万石の大名になり、徳川政権下で宗茂が完全に復権したことが明らかになった。
慶長16(1611)年6月24日、加藤清正が京都から熊本へ帰る船中で発病し、熊本で没した。
慶長18(1613)年1月29日には、慶長8年から常陸柿岡(茨城県新治郡八郷町)五千石に封じられていた直次が将軍秀忠の面前で高橋から立花に改姓する。
慶長19(1614)年10月9日、常陸筑波郡で五千石を下賜される。
元和3(1617)年に宗茂の弟立花直次が46歳で死去した。嫡男の種次が跡を継いだ。
元和6(1620)年、8月7日、筑後国の領主田中忠政が江戸で死去した。
嗣子がなかったため、当面幕府直轄となる。
元和6(1620)年、11月27日、将軍秀忠から旧柳川への再封が申し渡られた。(宗茂54歳)
元和7(1621)年、1月10日、17歳の立花種次が常陸筑波郡で五千石から筑後三池郡の一万石に封じられた。
ここからは、安部龍太郎氏の話からです。
奥州棚倉から約100人が随行して帰国した。その中に
約80名の安部姓がいた。
その中に安部龍太郎氏の先祖が入っており、柳川城下の
瀬高町に住居を与えられる。
その後、
黒木に山筒隊を命じられ、国境警備として黒木で農業・猟師などを営みながら住み込んだ。
矢部村に近く、熊本県鹿本町の山奥で、この地域は、南北朝時代、南朝方の後醍醐天皇方の残党たちがこの矢部、菊池、日田の山岳地帯に逃げ込んで激戦を展開したという歴史を持っている。
安部氏が東京で生活して、
福島出身ですかと、良く聞かれますと話をされました。
安部氏の父方は柳川藩立花家に関係あるが、母方は橋本氏といい、南北朝時代の楠正成の一門を先祖にもち、矢部の御側に祭られる良成親王が京から下向したときに随行してきたという。
安部姓は福島県や東北に多い姓であって、立花宗茂が関ヶ原の後で、福島の棚倉に流され、その後、柳川に復帰する時に付いて来たのです。
平成22年10月24日(土)、筑後市サンコアにおいて、記念講演会を歴史小説作家 安部龍太郎氏(八女市黒木町出身)に依頼し、「戦国時代の日本」と題して講演が行われました。
その時に、質問に答えられた回答を記載していたものです。
安部龍太郎氏の著書には、「蒼き信長」、「血の日本史」、「彷徨える帝」、「関ヶ原連判状」などがある。
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆を育てること。