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千寿の楽しい歴史
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2011清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝・千寿の楽しい歴史
清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝(民話)

筑後川の上流、蜂の巣城で有名な下筌(しもうけ)ダムの近くに、熊本、大分両県境にまたがった杖立(つえたて)温泉があります。この温泉の名前について、次のような2つの説があります。

昔、足のなえた病人が、温泉の効果で健康になり、杖を立てかけて自力で帰ったという説と、弘法大師が旅の途中、この川岸に杖を立て、ここを掘れば必ず温泉が出ると教えられ、村人がそこを掘ってみると熱い水が噴き出したという説です。

昔、この杖立川の川原で、1人の武士が数人の若侍を相手に、決闘をいどみました。いかに武勇の士といっても、多勢に無勢、1人2人倒しても敵はなかなかひるみません。

激烈な切り合いの最中、敵の1人が繰り出した槍(やり)先が、サッと武士の胸元に突き立てました。遠巻きにしていた人々の口から、ハッと驚きの声があがった、その時です。上記の武士は少しも騒がず、槍の千段巻きをパッと切り落とすやいなや、前の2人を斬り倒しました。

この勢いに恐れをなした敵は、一度にどっと浮き足立って、ついに6人とも斬り殺されてしまいました。戦い終った武士は、全身綿のように疲れ、十数か所に切り傷を負いましたが、その精神力は大したものです。

先ほど槍で突かれた胸元を開けて見ると、錦(にしき)の袋に入れていた木のお守りがあり、袋を開けて見ると、お守りは真っ2つに割れ、汗でグッショリになっていました。人々は「無事に助かったのは、お守りさんのお陰だ」と口々に語りました。

槍先は、このお守りに当って、皮膚には届かなかったのです。このお守りこそ、霊験あらたかな、本吉山清水寺のお礼だったのです。武士の名は足達八郎(柳川藩立花家の藩士)という人でした。

江戸時代に「東国の武は笠間にあり、西国の武は柳川にあり」と、その武勇を謳(うた)われ、また、幕末動乱期に名君と仰がれた島津成彬(なりあきら)公が、将軍に戦力を問われたとき、「今日、戦闘能力のある藩は、日本中どこにもありません。しいて上げれば、柳川の立花藩ぐらいでしょう」といった話は有名です。

日本中はおろか、朝鮮、明(みん=中国)国にまで、その武勇を轟(とどろ)かせた尚武(しょうぶ)の国柳川で、5代にわたって剣術師範を勤めた、誉れの足達家の4代目が、この八郎です。この八郎盛永の子、盛義(5代目師範)も、なかなかの剣豪でした。

幕末に6尺の竹刀(しない)を振り回し、江戸中の剣道場を席巻(せっけん)し、名だたる剣士を倒し、当時、剣聖といわれた幕府講武所の男谷精一郎さえ、一本も取れなかったと言われる有名な大石進が、生涯(しょうがい)に一度だけ敗れたのが、この茂兵衛盛義でした。そして、この盛義を鍛え導いたのが、父の八郎でした。

足達八郎は、当時、母の病気治療のため、家族を連れて杖立温泉に来ていたのです。宿屋に預けた刀の取り違いから、同宿の佐嘉藩の若侍6人と争いになり、ついに1対6の決闘に及び、杖立川の川原で、竹矢来を結んで果し合いを行いました。

足達八郎は25歳の男盛りとはいえ、相手も葉隠れ武士道に鍛えられた鍋島藩士。延々数刻の激闘の末、1人また1人と倒し、やっとの思いで勝ち抜きました。世にこれを「杖立騒動」と呼び、足達八郎の武勇と共に、清水寺のお守りの霊験が、広く喧伝(けんでん)されることになりました。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。




地名の由来

つえ~崖や崩壊地をさす「つえ」から生じた。

古代語が、のちに「つぶれ(潰)」、「くずれ(崩)」にかわる。急な斜面でまさに崩れそうな土地が、「きり立ったつえ」つまり「つえたて」であった。

「津江」(大分県など)の地名が多く残っている。





みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。







by kusennjyu | 2011-09-24 04:17 | みやま市の民話と伝説 |Topに戻る