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千寿の楽しい歴史
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2011有明海の干拓遺跡を訪ねて(高田町編)・千寿の楽しい歴史
有明海の干拓遺跡を訪ねて(みやま市高田町編)

平成23年9月27日  三池史談会9月例会  参加者 15名


説明は大城美知信資料より(三池史談会会長)。

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伊藤整一海軍大将の墓

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伊藤整一海軍大将

明治23年、三池郡開村黒崎開御手作に生れる。

福岡県立伝習館中学より海軍兵学校・海軍大学校へと進み、卒業後はエリート職業軍人として出世街道を進んだ。

昭和16年から中将として軍司令部次長・海軍大学校校長の任にあったが、太平洋戦争開始後の昭和19年12月に第二連合艦隊司令長官に就任、昭和20年4月、旗艦「大和」に搭乗して沖縄戦に特攻出撃途上の4月7日、鹿児島沖で米軍機の猛攻を受け、「大和」と運命を共にした。

享年55歳であった。墓は生家に近い金助坂の脇にある。

黒崎開と御手作

延宝5(1677)年頃起工し、貞享元(1684)年頃には完成したと見られる。柳川藩最初の藩営干拓である。

工事の責任者は普請役の今村五郎兵衛。黒崎半島の突端から江浦の三開水門に至る堤防の総延長は約4km、総面積は約20ha,また潮止め堤防に初めて石材を使用した。

その後、正徳3(1723)年の暴風・高潮により堤防が決壊したため、田尻惣馬が普請役として修築に当たった。

同開の南側、黒崎寄りの一帯は御手作(おてさく)といい、藩主自身が田植え・稲刈りに従事し、ここで収穫した米は藩主家の蔵入りとなった。

(余談話)

藩主が黒崎の御茶屋に鴨狩りに来て泊まった時には、御手作の農民は藩主に会うことの御咎め勝手で酒を酌んでいただけたそうです。

米の取れ高は約600表で400表を藩主に納め、後の残りを御手作の農民がいただいたそうで、他の出ごとなどの賦役はこの地区の農民にはかせられなかったとのことです。

厳島神社

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正徳3(1723)年9月8日、3代藩主立花鑑虎(英山公)が黒崎開の鎮守として奉献し、安芸の厳島神社を勧請したもの。

床下部分の構造(2段目の左の写真参照)が珍しく独特である。

祭神は市杵島比売神・田妓理比売神・多岐津比売神の宗像三神で、明治6年に村社となり、黒崎開地区の氏神となっている。

永治開(斗一開・矩手開ともいう)

文政7(1824)年から同9(1826)年にかけて、柳川藩が楠田組の大庄屋椛島斗一に命じて造成させた藩営の干拓地で、斗一開と呼ばれ、また堤防の形が大工道具の曲尺に似ているところから矩手開とも呼ばれている。

堤防の長さは2.1km、面積は62ha,黒崎開の地先に設けられ、潮止堤防には黒崎開の堤防に使用した石材がリサイクルされている。

明治7年8月20日の台風と高潮により堤防が決壊し、47名の死者を出した。以来、永治地区では毎年8月19日に同所の常盤神社で施餓鬼供養を行っている。

昭和26年から29年に堤防の修築工事が行われているが、この時は黒崎開の堤防の盛り土が使用された。

矩手水門

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黒崎開の排水機能を増強するために設けられた水門。黒崎開の旧水門は3ケ所にあっあtが、位置が高く、そのため隈川、楠田川の余水が滞留して排水が悪く耕作に不便であった。

これを改善するため、三池郡では明治31年から翌年にかけ、当時の金額で4千数百円を投じて赤煉瓦の眼鏡橋形水門を新造した。これにより、同開地の排水は著しく改善された。

新開村旧隄記碑(写真の左側の碑)。

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黒崎開の干拓事業を顕彰するため、天保6(1835)年、柳川藩によって干拓堤防上に建てられた記念碑。地元では「立石さん」ち呼んでいる。

碑文には工事の経過および工事に当たった今村五郎兵衛、田尻惣馬の名と干拓がもたらした恩恵などが顕彰されている。

碑文は篆額(題字:タイトル)を、撰文を佐藤一斎、書を関監梁という当代一流の有名人が携わっている点、その文化財的価値が高く、福岡県の指定史跡となっている。

近年、有明海沿岸道路建設により若干位置の移動が行われた。

次回は「雲龍の里記念館」を紹介します。




みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。

by kusennjyu | 2011-09-28 05:59 | みやま市の歴史
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