古代山城サミット「烽火リレー」に参加 10月7日午後2時~3時
天気 晴れているがガスがかかったような遠望が難しいような天気です。
御牧山
烽火リレー図
準備(ドラム管と杉枝・竹を割ったものを準備する) 駐車場の北側附近 御牧山標高 405.1m

左~合図(清水山からの合図を見て赤い幟を振る。) 右~合図を見て着火する。

中央に2本の木が立つ左側の木の下付近で振られますが、視界は写真の通り良くありませんでした。
下の山頂で幟を振っていたが、目視では難しかった。準備した双眼鏡で確認する。
煙が上昇する。

西風が吹き煙は東に流れ、西南方向へ伝達できたか心配でした。後ではドラム管の煙突効果で煙が上昇しました。
各烽火準備個所では、インタネット中継により各箇所の烽火リレーの模様を
ライブ映像により映し出すことで、リレーの成果を確認する。
① 大宰府政庁跡(福岡県太宰府市)
14時00分着火。
② 大野城跡(福岡県大野城市)
③ 基肄(きい)城跡(佐賀県基山町)
④ 豊満川堤防(福岡県小郡市) 14時11分確認
⑤ 朝日山(佐賀県鳥栖市) 目視できないとの情報が入る。 14時13分確認 ⑥まで12.6km
⑥ 十連寺公園(福岡県久留米市) 見えないとの情報が入る。 14時20分確認 ⑦まで10.6km
⑦ 女山神籠石(ぞやまこんごういし)(福岡県みやま市) 14時24分確認 次へは旗を振りリレーする。
⑧ 清水小学校(福岡県みやま市) 次へは旗を振りリレーする。
⑨ 清水山(福岡県みやま市) 14時29分確認 次へは旗を振りリレーする。
⑩ 御牧山(福岡県みやま市) 14時31分確認
⑪ セキアヒルズ(熊本県南関町) 14時34分確認
⑫ 二城山(熊本県和水町) 14時39分確認
⑬ 米野山(めのやま)(熊本県山鹿市) 14時44分確認
⑭ 鞠智(きくち)城跡(熊本県菊池市)
14時47分確認
烽火豆知識
雨などで烽火を上げられなかったり、烽火が伝わらない時には
人が走って伝えたそうです。
昔の烽火の間隔は20kmですが、昔は空気が澄んで見えやすいだろしし、昔の人は視力がよかったと思います。
古代の烽火では伝える情報を烽火の本数で区別していました。
沖縄の先島諸島の烽火では、島の間を航海する船を「琉球の船」・「中国の船」・「薩摩の船」と本数で区別した。
煙に色をつけて、より複雑な情報を伝えるという手法は戦国時代には、あったと言われる。
山陽新幹線の開業時に行われた烽火リレーで新幹線(時速200km)に少し負けています。
烽火
合図や警報のために火を燃やし、煙を高く上げるもので、古くから行われていた情報伝達手段です。
九州に多く集まる古代山城は、大宰府政庁を中心にネットワーク化され、互いに情報伝達を行いながら防衛の任にあたっていたと考えられます。
全国的な制度としての烽制が姿を消したあとも、蒙古襲来に備えた壱岐から筑前・肥前に至るネットワークがあります。
江戸時代に長崎警備にあたった佐賀藩・福岡藩のネットワークなどが知られています。また、
御牧山(柳川藩)では島原の乱を伝達する烽火を上げた記録が残っています。
みやま広報 生涯学習科発行文より。
烽火の歴史
「烽火」は、合図や警備のために火を燃やし、煙を高く上げるもので、古くから行われていた情報伝達手段である。
例えば、九州の弥生時代の高地性集落でも、展望の良い高所に烽火の遺構と推定される焼土壙が見つかっている例があり(佐賀県唐津市の湊中野遺跡や大分県玖珠町の白岩遺跡など)、すでに弥生時代のクニ領域ほどの広域通信網が形成されていたことが推測されている(福岡県教育委員会1993)。
国家的な烽火の制度として、東アジア全体に影響を与えたものは中国の烽燧(ほうすい)(烽は昼の煙、燧は夜の光)制度であるが、古くは周・秦の時代から整えられており、漢の時代(前206~後220)には万里の長城に沿って朝鮮半島の付け根から敦煌の西にまで延々と烽燧が設けられていたことがわかっている。
朝鮮半島では、三国時代(4~7世紀ごろ)には各地に設けられていたようで、いくつかの史書に烽燧が用いられていたことが記されている。ソウル市郊外にあり、鞠智城の八角形鼓楼と類似した建物が見つかっている二聖山城からは、戊申年(608年か)近隣の別の間で烽火による交信を行ったと見られる記述のある木簡が見つかっている。
日本古代の烽制については、663年の白村江の敗戦により唐・新羅の来襲に備え、その翌年に北九州地方に設けられたことが始まりである。即ち、日本書記巻二十七天智天皇三年条に「この歳、對馬(つしま)嶋、壹岐(いき)嶋、筑紫國等に防(さきもり)と烽(すしみ)とを置く。また筑紫、大堤を築いて水を貯へしむ。名づけて水城と日(い)ふ」記されている。
その後、『肥前国風土記』(732~740年ごろ成立か)には、国内に20カ所烽の配置がきされており、また実際に烽火が使われた例として、『続日本紀』には藤原広嗣の乱(740)の際に、広嗣が筑前国遠珂郡家に軍営を営み「烽火を挙げて国内の兵を徴発」したという記述が見られる。
しかし、これも諸外国との緊張関係が解かれた平安時代になると、大宰府管内を除いて廃止され(799)、やがて大宰府管内における烽制も実態を失っていった模様である。
また、文献や発掘事例に乏しいが、東北地方では799年の廃令後も東北においては対蝦夷防衛のための烽が存在したことが指摘されている。(高橋富雄、1974)
しかし、全国的な制度としての烽制が姿を消した後、各地で有事に備えた烽火制度が生き続けており、蒙古襲来に備えた壱岐から筑前・肥前に至るネットワーク、戦国大名による烽火群ネットワーク(北条氏、武田氏など)や、江戸時代に長崎警備にあたった佐賀藩・福岡藩の烽火ネットワーク、また琉球王国の火番盛(ヒバンムイ)ネットワーク(国史跡先島諸島火番盛)などが知られている。
資料:『烽の道 古代国家の通信システム』(青木書店、1997ほか)
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆 を育てること。