山頭火と緑平が歩いた筑豊(続き)
旧烏尾峠 昭和4年
山頭火は、糸田に入るためにいくつかの道を使った。
その1つが飯塚と糸田を結ぶ旧烏尾峠である。現在の国道201号にある烏尾峠の北に位置する古道で、かっては筑前と豊前を結ぶ国堺の峠道であった。
当時、その峠を下った飯塚には山頭火の長男・種田健が二瀬炭坑の技師と働いていた。
昭和4(1929)年2月28日の日記によれば、「旧道を歩いてゐるうちに道を間違へて小竹町に出ましたので、そのまま一泊する」とある。
句碑
迷うた道でそのまま泊る 旧烏尾峠(糸田町側)
友情の証しの山頭火日記
山頭火は、旧烏尾峠を越えるほかにも、折尾、直方を通り汽車で駆けつけることもあった。
「歩いてゐるうちに、だんだん憂鬱になって堪へきれないので、直方からは汽車で驀進(まっしぐらに進むこと)した」と昭和5(1930)年11月26日の日記に述べている。
枝を さしのべてゐる 冬木 山頭火
「(枝は)さしのべてゐる緑平老の手であった。私はその手を握って、道友のあたたかさをしみじみと心の底まで味はつた」とある。
自ら放浪生活を選んだものの孤独な気持ちは晴れず、自暴自棄に陥りがちな山頭火が、心の底から甘えられたのは緑平だけであったのだ。
しかし、山頭火には、そんな緑平に報いる手立ては何もない。行乞の途上に書き付けた日記と句が全てだっただろう。緑平もこれを理解し、何かに付けて金を無心しにくる友人を責めることなく受け入れ、惜しみなく行乞の旅を支えた。
緑平の田川での炭坑医生活15年の間に、山頭火は糸田に14回、赤池(現在の福智町)に4回、緑平を訪ねている。

逢うて別れて さくらのつぼみ 遭ひたいボタ山が見えだした 山頭火
聴診器 耳からはづし 風の音きいてゐる 雀生まれてゐる 花の下を掃く 緑平
旅を慰め、句を拾う場所――香春(かわら)
山頭火は、いつもふらりと緑平を訪ねてきたが、炭坑病院の医師であった緑平は、そうそう山頭火の相手をしていられるわけもない。
緑平が留守の時は、妻のツネが山頭火を迎え、当たり前のように「これでよい句を拾っていらっしゃい」と、お金を持たせたといわれる。
山頭火はそんな夫婦の温情を懐に、よく香春町を遊山した。
金辺川沿いの句碑めぐり 金辺川沿いに遊歩道があり、9基の山頭火の句碑が建立されている。)

香春 晴れざまへ 鳥がとぶ
ふりかえれば香春があった
香春をまともに乞ひ歩く
鳴きかあわしては寄りそう家鴨(あひる)
「香春岳にはいつも心をひかれる。一の岳、二の岳、三の岳、それがくっきりと特殊な色彩と形態を持って峙(そび)えてゐる。よい山である。忘れられない山である」と、同年の日記にも述べている。
ときには川べりに座り込み、笠の手入れや法衣のほころびを縫ったりしながら、いつまでも山の姿を楽しんだという。
二人の友情を語り継ぐ
かつて緑平が住み、山頭火がたびたび訪れた糸田町宮床には「鉱長坂(こうちょうざか)と呼ばれる古い坂道が残っている。
その坂を上りきったところに、町で最初に建立された山頭火と緑平の句碑がある。
枝を さしのべてゐる 冬木 山頭火
雨ふる子のそばに親の雀が来てゐる 緑平
筑豊で育まれた二人の俳人の絆と友情は、時代を超え、多くの人々の心を魅了しつづけるだろう。
グラフふくおか 2011秋より。 やながわ人物伝(木村緑平)より。
福岡県庁県民情報課よりメールをいただき修正した個所がありますお礼申し上げます。
私のブログを見ていただいている皆さんにお詫びいたします。今後ともよろしけお願いします。
追記 筑豊の旧名所 クリックして見て下さい。
高座石寺(こうぞうじ)
仲哀隧道
みやまいいまち会 下の詳しい内容が判ります。
今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。
私の目標 今一番大事なことは絆 を育てること。