松尾屋 有明新報 ふるさとまち歩き④ 平成23年11月6日
私が書いた文章
松尾呉服店 みやま市高田町下楠田(渡瀬町)
松尾呉服店は、明治41年(1908年)当時は旅館「松尾屋」であった。
渡瀬で社会主義講演会が開催された後に、小作人の一部が近くの旅館「松尾屋の二階で集会をしている。「止宿人名簿」には社会主義講演会の講師の署名が残されている。
「
止宿人名簿」の表紙は薄朱色で、明治38年1月以降、紙員48枚、三池郡二川村大字下楠田1907番地、松尾右左(氏名)と記されている。
中の内容は客室番号・氏名、年齢、族籍又ハ国籍、住所、職業、旅行要旨、着月日(時間)、発時間月日(時間)が記されている。
この名簿に記載分は475人です。内訳は平民が376人、福岡県が207人、佐賀県55人、熊本県59人、その他の県69人です。
旅行の要旨は商用で332人、公用(官吏)99人、その他44人です。
渡瀬町は柳川藩の十三在町の一つであり、柳川城下と三池陣屋を結ぶ三池海道筋の職場町で、柳川城下の札の辻を起点とする三里になり、三里石が福正寺の参道入り口(国道横)に建てられている。
明治時代は商人宿、旅籠屋、木賃宿が7軒あり、「松尾屋」はその中の1軒である。
車力屋、馬車屋、車屋が10軒、桶屋、米屋、菓子屋、呉服屋、味噌醤油屋、鍋屋、床屋など軒を並べて大変な賑わいぶりである。
高田町郷土史部員 久保田 毅
絵 中川原広吉
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明治時代の日本の身分制度
明治時代になると江戸時代の身分制度「士農工商」が廃止となりましたが、支配階級に特別な称号が与えられ、身分制度は実質残っていました。
明治時代の日本の身分制度には華族(江戸時代の公家や大名)、士族(華族以外の武士)、卒族(足軽などの下位の武士)、 平民(職人、商人、農民などの町人)、また江戸時代の穢多・非人には新平民と呼ばれる蔑称で呼ばれることもありました。
三里石(三池街道)
渡瀬南町福正寺の参道入口に、石の標柱がある。これが藩政時代の三池街道筋に建てられた道標である。
地上高さ140cm、巾30cm角の砂岩石柱で、正面上部に『三里』と刻まれ、下部にやや小さく『江浦通』と刻まれている。
この石は地上80cm余りの個所で折れているものの、復修されて原形を留めているのは何よりの幸である。
渡瀬の町は『宿場町』
鎌倉、室町時代までは、隈川、楠田川の河口であり、倉永の山下市場では、当時、島原、天草方面から産物を満載した舟が、隈川を上って運んで来て市場が開かれていた。
西鉄渡瀬駅の南西部の麓の集落に市場という地名が残っている。
渡瀬は後ろに小高い山があり、有明海を隔てて多良岳が眺められ、満潮はすぐ足元までよせていた。山の根にへばりつくようにして人家が点々と並んでいた。
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