岩田小学校思い出(明治時代)1
写真は明治28年11月 今福に岩田高等小学校創立
日清戦争ごろの岩田校 明治32年3月卒業 山下光次(田尻)
私が子供のころ日清戦争があり、日本海軍が支那の一番大きな軍艦「定遠」を黄海の海戦で沈め、「鎮遠」を捕獲、旅順を攻略したといって、お祝いの提灯行列があったことを覚えています。
軍歌の「道は六百八十里」、「勇敢なる水兵」などがそのころ流行していました。「煙も見えず雲もなく・・・・」、「まだ沈まずや定遠は、その言葉は短かきも、御国を思う国民の、心に遠く記(し)るされん・・・・」などと歌っていました。
田尻から岩津を通る往還(道路)も、まだ狭くて荷車がやっと通るぐらいの道幅でしたが、そこで独楽を回して遊んだりしました。そんなとき、田尻の
水野澄治さんという漢字の先生が、髯をはやして羽織袴のいかめしい顔でよく通られたことを思い出します。
お祭りのときは、1銭か2銭の小遣いを親からもらいましたが、「
そうて使うてくっとでけんぞ」とよく言われました。まだ1厘半の寛永通宝という
穴のほげた銭が通用していたくらいですから、2銭もあれば十分の小遣い銭でした。
7つになった年の4月、私は小学校に上がりました。靴などないので、履物は自分でわらじかわら草履を作ってはいて行くのが普通でした。
勉強は読本と書き方、修身、そろばん、唱歌ぐらいで、書き方は草子(そうし)をとじたものに、まっ黒になるまで書きました。
1年の読本はチチ、ハハから始まりましたが、習った字の数は何文字か知れたものでした。そんな勉強でも泣いて学校へ行かぬ子が多く、4年まで卒業した者はわずかでした。
学校はそのころ「岩田尋常」といって、岩津の山下米屋の前、江頭さん方の左、高みにありましたが、学校とは名ばかり、障子の立った普通の家を四つ割りに仕切った教室で、そこに座って習いました。
校長は龍興郷先生といって、飯江から来ておられました。そのほかに
利光先生ともう1人男の先生、それに裁縫を教える女の先生と4人ぐらいでした。運動場はないので、体操など習いませんでした。
尋常小学校を卒業してから高等学校へ進みましたが、この学校は岩田、飯江、江浦、二川、開の5カ村共立の学校で、「岩田高等」と呼ばれていました。その場所は今福の現平川一夫氏手前の田んぼの所でした。
校長は戸次先生、安藤先生、木下先生、日巻先生、都という女の先生などをよく覚えています。
学校は4年まであって、尋常科に比べると校舎も広く立派で、運動場もありました。でも、田尻方面からは私を含めて、4・5人しか通学していませんでした。
私は第5回卒業生ですが、制度の改正があり、10回ぐらい続いたでしょうか。その後は尋常校に高等科が併設されて、岩田高等は廃止されました。
弟(山下新蔵=故人)は
野田俊作さんと同級でしたが、俊作さんは高等3年から中学校へ入学のため、2年でやめられたようです。
私の同級生に、直次君や安武正典君がいました。正典君は軍医になり、大尉で召集を受けて出征しました。除隊後は開業しましたが早世しました。
私は卒業した後、岩田村の役場に勤めました。そのころの役場は、前記岩田尋常の手前隣(川のすぐ南の道端)にありました。後に、手狭になり改築のとき、道の向かい側に移りました。
職員は村長馬場俊さんの下に収入役古賀寅彦さん、戸籍係、兵事係、庶務係、勧業係の5課で、私は兵事と庶務の2つを兼務していましたから、総人員は村長以下5人でした。
高田町立岩田小学校 創立百弐拾周年祈念誌(平成8年3月31日発行)より。
そうて使うてくっとでけんぞ~柳川方言。全部、使ったらいけないぞ。
ほげた銭~柳川方言。穴の開いた銭。
水野澄治(みずの・とうじ)~三池郡岩田村(高田町)田尻に生まれる。明治5(1872)年8月、田尻に漢学塾(水野塾)を開設する。
野田俊作(のだ・しゅんさく)~政治家。野田卯太郎の長男に生まれる。
三池郡誌より
村長 古賀次三郎 明治22年5月~明治29年8月(満期改選) 大字今福
村長 水野澄治 明治29年9月~明治42年4月(満期改選) 大字田尻
村長 馬場駿 明治42年5月~大正10年7月(満期改選) 大字岩津
村長 宮本吉辻 大正10年年8月~ 大字田尻
収入役 日巻常蔵 明治22年4月~明治44年9月 大字今岩津
収入役 古賀寅彦 大正5年2月~大正14年2月 大字今福
校長 龍興郷 明治25年4月~明治30年3月 飯江村
校長 利光寅三郎 明治30年4月~明治41年6月 岩田村
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