岩田小学校思い出(明治時代)2
明治30年頃の岩田尋常 明治33年卆 宮本直次
明治29年4月、岩田尋常に入学しました。その頃の小学校は4年制で高等科はありませんでした。
校長 利光寅三郎 先生(岩津)
男先生 北原信雄 先生(開3軒屋)洋服を着用された。
男先生 西山軍蔵 先生(濃施)神官で和服着用。
男先生 柴田 先生(江浦村徳永)和服着用。
女先生 野田タキノ 先生(岩津) 和服着用
野田タキノ先生は野田卯太郎の次女で後、熊本県出身の代議士、松野鶴平氏に嫁入りされて、現代議士松野頼三の母であります。
その頃の運動場は現在の4分の1くらいだったと思います。南は畑地で、また亀焼きの土取り場でありました。校舎の南側に大きな桜の木が7.8本あって花の季節には見事なものでした。
学校に登校する折にも貧富の差がはっきり表れ、地主の子供(その頃は90%以上が農家)はわら草履ばきで、雨の日は竹の笠で登校しました。雨傘なしでした。
今思いますと小学校の頃は大変物価が安うございました。4年生で卒業の明治33年、修学旅行があり熊本方面へ行きました。
植木まで4日間歩くので、わら草履は何足も背中の袋に入れておりました。その時、山川村野町から森先生が来ておられましたが、森先生は野町の自宅に待っておられて一行に加わり、野町、北ノ関を越えて南関、大原村の「腹切り坂」を通りました。この坂はあまり長い坂道なので、昔侍がいやになり腹を切ってしまったと聞かされました。それからウチワのできる町、山鹿を過ぎて隈府町(現菊池市)に1宿しました。
翌日は同町の城跡(注菊池城跡)と菊池神社に参拝して肥後大津に出ました。大津では昔の江戸参勤の殿様が通った何百とも知れぬ杉並木道を通り水前寺公園に着きました。
第二泊は一番大きな旅館トギヤ支店に泊まり、その翌日に熊本城や本妙寺に参拝しましたので第3泊もトギヤ支店に泊まりましたが宿賃は2泊で70銭でした。その次の日は九州鉄道(現JRの汽車に乗り渡瀬駅に帰着しました。
その修学旅行の費用は、学校に3円納めました。私は父から5円もらって旅費と使い銭にしましたので安心して旅行することができました。
その上旅行の途中、野町の叔母から50銭もらったのでうれしくて、うれしくて今も忘れません。生徒の中には旅費のもらえない者があって何人か欠席しました。
その頃は物価が安くありました。
宿料 隈府 1宿 30銭・熊本 1宿 35銭
清酒 1升 30銭・米1俵(3斗5升俵) 3円50銭
男の賃金は1日働いて 30銭くらい。
「米は10銭するさ こらさのさ
働かねば喰われん とかいてあろ
唐米(とうまい)やくさいさ こらさのさ」
その他の思い出
(1)私が小学校を終えた後と思いますが、岩田村で一番に田尻の町野医師が自転車の初乗りをされ、みんな珍しがって見ていました。
(2)安武医院にラジオという物が来たげなと聞いて、聞きに行きました。
(3)昭和2年2月22日、野田卯太郎大臣の死去で3月8日、岩津の田畑三千坪ぐらいを地均しして葬式があり、東京その他各地から有名な人々、それに村民あわせて三千人以上の参列者でたいそうな告別式でした。
高田町立岩田小学校 創立百弐拾周年祈念誌(平成8年3月31日発行)より。
修学旅行の思い出コース
岩田小学校出発(三池郡岩田村)ーー→野町(現みやま市山川町野町)ーー→薩摩街道ーー→南関町(熊本県)ーー→豊前街道(薩摩街道)ーー→腹切坂ーー→山鹿市ーー→隈府町(現菊池市)第1日目宿泊
第2日目隈府町出発ーー→大津町ーー→豊後街道ーー→熊本市到着(宿泊)第2日と3日宿泊地
熊本市内見物して第4日目に現在の九州鉄道(JR鹿児島本線)でみやま市渡瀬駅へ帰る。
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私の目標 今一番大事なことは絆 を育てること。