江浦城と江浦の開拓(郷土江浦町より)
1.江浦城
江浦城
当時、江浦城は岬の先端に位置し、
三方海に囲まれ、この所を攻めるには、東口からだけであった。
しまも、この東口は芦の生い茂った湿地帯で、芦を束ねて足場として攻めなければならず、また海の方では土地の漁夫の子弟を訓練して、田尻水軍を編成して本拠地を江浦港に置き、普段は漁業に従事したり海狩をしているが、有事の際は何時でも召集出きる様になっていていたと云われていた。参道入口の大榎「船つなぎ榎」と言われているのは当時の名残りではなかろうか。
田尻氏は天正7年以降は肥前竜造寺氏に味方し、筑後の各地で戦功を挙げるが、のち謀判の疑をかけられ、竜造寺の田尻攻撃が始まる。
天正11年鷹尾城は降伏したが、江浦城番田尻了哲は鑑種の嫡子長松丸を擁し、危略を以って抵抗を続け肥前軍をなやまし続けた。天正11年12月に至り鍋島信正の説得にてついに和解成立、田尻一族は佐賀郡巨瀬村に移る。
江浦城の戦い(江浦誌)
竜造寺隆信は田尻丹後守鑑種が居城たる鷹尾城を攻め一気に落城せしめんとした。しかしその期待はみごとに裏切られて長期戦となった。
肥前軍の辛苦は一方ではない。鍋島信正と談合して田尻了哲入道が在番せる江浦の端城を攻め落とすべしと、肥後、筑後のやからを差し加えて、中島(柳川市大和町)のぬかるみを打ち渡り、江浦城へしゅくしゅくと攻め寄せた。
了哲はかねてこのことを覚悟し竹木、芦葦、土俵等を持って山と築き立て、今や遅しと待ち受けた。寄せ手軍勢、うんかの如く満ち潮の勢いをもって迫る。今や堀一重に攻め寄せて来た。城方の築山陰より打ち出す鉄砲の響きは百雷の一時に落ちるかと疑われ、戦いは数日間、間断なく続き、共に力尽き果て戦力は衰えた。
こうするうちに薩摩より田尻軍に加勢野大軍来たるとの情報に、前後に敵をうけては叶わじと肥前軍は釣勢櫓を急造し、城内の鉄砲組を打ち伏せんと計画し、数ヵ所に櫓ができ、農家より没収した鍬鋤をもって外側を囲み内側は枯れ草、わらを充満し踏み固める。またわら類を集めて堀を埋める。
準備が整うと肥前軍はいよいよ攻撃態勢をとる。この時おどろき恐れたことは、城堀の水が急に増え吸門の方へ流れ出した。これは江浦城が危急の時に際して、飯江川の水を二ケ所より導入する、秘密の堰開放の水法術で、肥前軍は大いに驚き一刻も早く城を落とさねばと、あせりたてて、釣勢櫓より勇士の数名は城内へ鉄砲、大砲を打ち込む。城軍はさっそく数十本の松明を築地の上から釣勢櫓めがけて投げつける。肥前軍は投げ返す。堀を隔て、松明は右へ左へ飛ぶ。城兵は熊手をもって引き倒しに取り掛かる。
肥前軍は死傷者が増すばかり、数ケ月たっても落城の様子なく、城兵は意気盛んになるばかりとなった。しばらくする間も鷹尾城、堀切城、浜田城、津留城から、江浦城了哲を援助に来たらしめざるよう、警護もせねばならず、本荘及び支城の陣容は一代の武将田尻鑑種、智略を絞って、構築した防御配置法であった。
矢部川、飯江川の流域の要所要所の一帯は堅固そのもので、5年10年の長期戦なんぞ飢えに苦しむことなく、持久戦略上最も優秀なり、一族郎党結束堅く殺気天に沖していた。
北肥戦誌
以下は私の感想です。
現在の矢部川は中央の破線で示す直線の川に改修されて地図の南側まで陸地になっている。
当時は城の近くまで海が迫る水城で難攻不落に敵が攻めて来たら堰を開放して急流を流すように構築されていた。
2.御領分汐土居間数覚(寛文13年柳川藩普請役今村五郎衛報告)
地図中の矢部川の左岸に山門郡とある網目の部分は江戸時代に右岸の中島町の管理地で番所がありました。
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