幸若舞上演「日本記」(小学生) 1月20日 大江八幡神社
抑抑(そもそも)日本開闢(かいびゃく)のみぎん、いざなぎ、いざなみ2人の・・・・・
動画(日本記 2本)
松尾教授の説明
幸若舞の動きは少なく、前後とタスキかけの2通りです。
1・幸若舞の起源
大江に伝えられる系譜によれば、次のように記されている。
幸若舞の創始は源義家八代の後胤桃井播磨守直常の三男修理亮直信(幼名幸若丸)である。
桃井の姓の起こりは四代目義胤が上州(群馬県)に居住したためとされている。
幸若丸は幼児比叡山にのぼって和漢の学を修め歌曲を読み学術に励んだが、そのころ双紙一部三十六番があり、これに節、拍子を付けて、歌い舞い、これを「双紙舞」と呼んでいた。
幸若丸は、天性口拍子に優れていたので、従来の節拍子を研究し新調を試みた所、吟詠清朗で、音声律にかない、幽玄な舞振は見る人を、おどろかした。その舞は白拍子や曲舞に似た点も認められる。
その後、幸若丸は父に従って、越前に帰ったが、父の死後京都に出て、天皇の御聞に達し上覧に供した所、賞賛をうけ父の封地越前に百町の領地を賜わった。
このころから世に知られ、門人も多くなり、幸若丸の嗣子弥次郎直茂の代に本姓桃井を改め、
幸若と称して、この舞を幸若舞と呼ぶようになったという。
平家茶話所載の系図には、幸若丸は直常の孫直信との説もあり小松天皇の上覧に供し、従五位下宮内大輔に補され足利義親の近侍となり、その後、信長、秀吉、家康らの保護を受け、江戸時代260年間は幕府の式楽として越前に千石ほどの」領地を与えられ旗本の待遇を受けた。
幸若舞保存会資料より
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