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千寿の楽しい歴史
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2012和算講演会(伊能忠敬測量)・千寿の楽しい歴史
和算講演会(伊能忠敬測量)   

平成24年3月24日(土)えーるピア久留米

伊能忠敬豆知識

1.伊能忠敬は、どこで生まれましたか。

忠敬は今から約255年前の1745年、今の千葉県九十九里町に生まれました。数学にあたる算学などを学んだといいます。 17歳になってから、同じ千葉県佐原市の伊能家に婿養子に入りました。

2.伊能忠敬の職業は。

伊能の家は、代々名主であり、酒造りの他、米や、燃料にする薪などの取引をしていました。伊能忠敬の職業は商人であると同時に、今の町会長か村長のような仕事をしていました。

忠敬が伊能家に来たときには、商売はあまりうまくいっていなかったのですが、忠敬の努力でもり返し、飢饉の時などには、困った人々を助けるまでになり、佐原村(現在の佐原市)でも評判の、よい名主になっていました。忠敬は、49歳になるとその仕事を長男にゆずり、江戸へ出て天文学の勉強を始めました。

3.伊能忠敬は、どこで測量などの勉強をしたのですか 。

49歳になって、江戸へ出た忠敬は、子供の頃からの夢だった、天文・暦学を学びます。
江戸では一番の天文・暦学の先生であった高橋至時(よしとき)先生の門人になりました。  そのとき、至時先生は30歳でした。19歳も年上でした。
 
4.伊能忠敬はどのような目的で、全国測量を始めたのですか。

忠敬は、至時(よしとき)先生のもとで天文学や暦学を学ぶうちに、その時の暦学の問題であった、「子午線(しごせん)1度の長さを正確に知り、その結果から地球の大きさを求めてみたい」という気持ちになりました。

南北方向の距離を正確に計り、それぞれの地点で北極星などの恒星(こうせい;おたがいの位置を変えない星)の位置を観測し、各地点の緯度を知ることでもとめられます。

忠敬の測量の最初は、江戸を出て、北へ北へと距離を計り、緯度の観測を続けることから始まりました。
地球の大きさをもとめるという目的では、幕府から測量を行うための許可がもらえません。
表むきの目的は、日本の正確地図を作るためとして始められました。

以下は伊能忠敬の全国測量より。

第七次測量(九州のみを記す)

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文化6 (1809)年 8月27日に江戸出発。豊前・小倉で越年。小倉に14日滞在してから1月12日に九州測量開始。中津、杵築、大分、臼杵、鳩浦 (津久見市) と進む。ここで3月1日の日食の観察準備をしたが、天候不良で失敗。3日に測量を再開する。海岸線が複雑で日向の延岡に着いたのは文化7 (1810)年4月6目だった。

佐土原、日商、都城、都井岬、内之浦から、大隅半島を鹿屋経由で横断し、西岸に出る。南下し、半島を一周して6月23日、鹿児島に着く。薩摩半島を南下、山川湊から屋久島、種子島に渡る予定だったが、風が悪いので枕崎方面に向かう。

薩摩半島を測量ののち串木野で手分けし、海岸線と街道筋を測って肥後に入る。ここで屋久島、種子島測量を断念し、天草を測ったのち大分に12月28日に到着、越年。翌1月4日大分発、中国、近畿、中部地方の主要街道を手分けして測量し文化8年(1811)年 5月9日、江戸帰着。

第八次測量(九州のみを記す)

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文化8(1811)年 11月25日江戸出立。文化9(1812)年 1月25日、小倉に着く。小倉からは手分け測量で北九州の内陸部を南下、忠敬組は大口から、坂部組は串木野方面から鹿児島に入る。

山川湊から3月27日屋久島に渡る。続いて4月26日に種子島に移って測量し、5月23日に鹿児島に帰る。北上して九州内陸部を縦横に測り、小倉に出る。北海岸沿いに博多、唐津、伊万里から佐賀、久留米と回る。続いて有明海岸を西に進み鹿島、諌早から島原半島を一周して大村へ。大村湾を手分けして測り、佐世保で越年。

周辺の島々を測量して平戸へ。平戸島と松浦地方、近隣の福島、大島、鷹島、生月島などを測って、3月13日壱岐に渡る。15日間測量したのち対馬へ渡り、53日間対馬全域を測る。平戸に戻り、5月23日、五島列島に渡り北端の宇久島から測りはじめる。

五島列島の測量には7月30日まで66日かかった。信頼していた副隊長の坂部貞兵衛が福江島で病死。忠敬は悲嘆に暮れる。8月15日長崎着。長崎半島を一周したのち別路を測って10月11日小倉に着く。

距離を測る作業

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測量風景

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伊能忠敬日記(瀬高附近)  

第八次測量の北九州内部を測量の時に来ています。

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起点中心図(下庄)

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伊能忠敬日記(瀬高町と高田町の現代文読み)

瀬高町での伊能日記

瀬高町での伊能忠敬の測量隊の日誌には文化9(1812)年2月8日九ツ前(12時前)瀬高町柳川領に至る。

同所にて中食。下庄町村(下庄新町)三池街道追分、高印(瀬高基点)より始め、土居(八幡町一)~一里木(中絶)~真木村~井出ノ上村~長嶋村~下小河村~鬼木~長嶋本村。山門郡長嶋村・三池郡古賀村界まで測る。

高印より一里三町五十七間とある。長嶋本村の三池郡古賀村境界まで測量して瀬高に引換している。

一里三町五十七間=約4.4km弱。

高田町での伊能日記

高田町地域の伊能忠敬の測量日記には文化9(1812)年2月9日朝曇晴六ツ頃、瀬高町を出発、三池郡古賀村より初め、宇津川(飯江川)川幅12間枝下古賀、岩津村枝高木の宗平方で休む。

今福村字城下 西濃瀬村、北新開村、柳川街道、追分三軒屋、西濃瀬村字三軒屋、東濃瀬村枝迎田(右南新開、左楠田村)両村枝渡瀬左右楠田村枝渡瀬左右楠田村枝渡瀬にて、小休しは東派一向宗福正寺とある。

文化9(1812)年2月12日、柳瀬(八女市)~北田村(柳川領)~山下町~山中村~小田村~大塚村~草場村~本吉村、吉印まで一里三十一町九間。そこから清水寺本堂までの参道を測量してもどり、また古印よりはじめ、朝日村~藤尾村~上小川を通り大竹村に入ります。

瀬高町郷土史部会設立の伊能忠敬測量基点之地石柱

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by kusennjyu | 2012-03-30 05:47 | 和算学習会 |Topに戻る