矢部往還(瀬高宿)を行く 瀬高上庄と「御茶屋」
大冶6(1131)年、瀬高荘が矢部川を境に上庄と下庄に分けられ「瀬高上庄」が成立しました。中世以来、矢部川舟運の拠点でもあった「倉ノ前浜」(御倉浜)には、近世に立花柳川藩の在の三蔵の一つ、瀬高御蔵が配置されました。
3代藩主立花鑑虎(あきとら)の隠居後、元禄11(1698)年に、柳川城下から瀬高上庄・下庄を経て山川町野町へ向かう道が新設され、上庄町・下庄町は宿場町、矢部川の物資集積地として発展しました。上庄町には別当が置かれ、馬継所には札馬29疋(ひき)が常置されていました。
また柳川瀬高往還と薩摩街道の追分に藩営の「御茶屋」がありました。嘉永6(1853)年8月30日には、篤姫が江戸参府の途次、この「瀬高御茶屋」に止宿しています。
薩摩から江戸へ・篤姫の辿った道 半田隆夫著より
瀬高御茶屋にて
8月30日の篤姫の宿泊先は、おそらく瀬高御茶屋(みやま市瀬高町上庄)だと思われます。
山鹿宿ー南関宿は17.3km、南関宿ー瀬高上庄宿は15.1kmです。8月30日朝、山鹿を出立した篤姫一行が正午前に南関御茶屋に立ち寄り、昼食と休憩をとっています。
そして午後1時に出発しています。そうしますと、午後5時前には瀬高御茶屋に到着、止宿ということになります。
みやま市の瀬高町域には、瀬高上庄宿と瀬高下庄宿の2つの人馬継所(宿駅)がありました。矢部川を挟んで、わずか1kmの至近距離の地点に、なぜ2つの宿駅が設けられたのでしょうか。
下庄宿は「登り」の旅人が休泊する宿駅であり、上庄宿は「くだりのもの」のための宿駅でした。
両宿は、「上り」「下り」を相互に補完し合う「端宿(はししゅく)」として機能しました。
篤姫一行は江戸への「上り」ですので、本来ならば下庄宿に休泊すべきですが、大名などの身分の高い者が泊まる御茶屋が下庄宿にはなかったため、上庄宿の瀬高御茶屋に投宿したものと思われます。
瀬高から府中へ
9月1日、瀬高上庄宿を出立。篤姫一行は、有馬久留米藩の3宿(羽犬塚・府中・松崎)の1つ羽犬塚宿(筑後市)の御茶屋(跡地は現在、羽犬塚小学校)で休息したものと思われます。
府中から松崎へ
府中宿で休憩後、篤姫一行は、九州一の大河筑後川を神代(くましろ)の渡し(久留米市山川神代)で渡河しました。
9月1日、篤姫一行が府中宿を通行した資料はありますが、宿泊地を示す資料を発見できていません。
瀬高宿から古賀茶屋(小郡市)を経由して松崎宿まで歩き、松崎宿に泊まったものと思われます。
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