2012長崎街道「筑前六宿」の旅へ・千寿の楽しい歴史

長崎街道「筑前六宿」の旅へ
グラフ ふくおか 2011冬より

黒崎宿~筑前六宿の玄関口となる宿場
宿場町の構造をみる
長崎街道には、諸大名や長崎奉行などが泊まる「御茶屋(本陣)」や、その家臣などが泊まる「町茶屋(脇本陣)」が設けられた。
これらの茶屋は庶民が泊まる「旅籠」とは一線を画していた。宿場町には、この御茶屋や町茶屋を中心に、宿を統括する役人を置く「代官所」、駕籠や馬を乗り換えたり、物資を扱う「人馬継所(問屋場)」、さらに、旅人を検査する「構口」が置かれた。
また、宿場町は旅人をもてなす他にも「鉤(かぎ)の手」と呼ばれる直角に折れ曲がった道を造るなど、外敵の侵入を防ぐ役割も担っていた。
城下町から宿場町へ
黒崎宿は小倉から長崎へ向かう最初の宿である。慶長9(1604)年、城下町として建設されたものの、元和元(1615)年の「一国一城令」で城は取り壊され、城下町は宿場町へ移り変わった。それは、藩の通貨を造っていた鋳銭場跡に、速やかに御茶屋が建てられたことでもわかる。
黒崎湊で繁栄した宿
黒崎宿には、福岡藩では唯一、大坂への渡海船が発着する「黒崎湊」があった。
交通の便がいいことから商売の盛んな地となり、その繁栄ぶりは六宿の中でも抜きん出ていたという。また、黒崎湊に着船し、長崎街道を抜けるルートも大いに活用された。
幕末、京都から逃れてきた三条実美(さねとみ)ら五卿や、坂本龍馬なども船で上陸したといわれる。龍馬の黒崎での宿泊は定かでないが、五卿は湊から輿に乗り、送迎の藩兵に守られながら、黒崎の御茶屋に入ったという記録が残されている。
写真説明
1右上~黒崎宿東構口跡=元和元(1615)年、廃城となった黒崎城の堀を埋めて造られた。
2左上~御茶屋跡から出土した茶碗片=出土した茶碗は須恵で焼かれた御用器で、「黒崎」の銘が残った珍しいもの。
3中~『筑前名所図会』=黒崎駅の図。駅とは宿のこと(福岡市博物館 所蔵)
4右下~曲里(まがり)の松並木に残る江戸時代からの松。
5左下~常夜灯=1849年、灯台として黒崎湊の入口に建てられたもの。地元の船庄屋などの名前が刻まれている。

木屋瀬宿~古代より交通の要衝であった宿場
遠賀川水運の川港であった木屋瀬
黒崎宿から、ほぼ3里(約12km)先が木屋瀬宿である。木屋瀬は遠賀川のほとりにあり、本格的な宿場町に発展したのは17世紀半ばから。木屋瀬の繁栄には遠賀川の対岸である植木の存在が欠かせない。植木は中世以降、遠賀川水域を代表する川港であった。
その渡し場として木屋瀬は水陸の拠点となり、肥前名護屋城に向かう豊臣秀吉が通ったり、徳川家康が仮陣したと伝えられている。
そのことから、文禄・慶長期(16世紀末~17世紀初頭)には、すでに大名の休泊所が設けられ、商家は立ち並んでいたとされる。
明治40年の大火で町の約半分が焼失してしまったが、近年、整備・公開された江戸後期の豪商屋敷「旧高崎家住宅」などは残り当時の豪商の暮らしぶりがうかがえる。
高崎家はその財力を背景に、高山彦九郎、頼山陽、シーボルトなど、多くの文化人と交流があったといわれる。
江戸時代の旅人の姿をたどる
さて、当時の宿の生活をのぞいてみよう。宿場には御茶屋や町茶屋意外にも、庶民的な旅籠や木賃宿が軒を連ねていた。人々は「暮六ツ」と呼ばれる日没前に宿屋に入り、旅の草履を脱いで、荷を降ろした。木賃宿などは相部屋が常識。旅の者同士で話が弾んだことだろう。
旅の持ち物は道中記(旅行案内帳)に火打ち石、手ぬぐい、鼻紙、針や糸、短刀、日時計と磁石、筆記用具の矢立、髪結い道具、折りたたみ式の道中枕や薬など。
旅行中の食事は宿で取るほか、携帯した干飯や宿で作ってもらう弁当を持ち歩いた。人々は夜明けの「明六ツ」とともに出発し、次の宿を目指したという。宿場町は、そんな旅人を迎え、送り出す場所であった。
飯塚宿・内野宿・山家宿・原田宿

地元では2012年、長崎街道筑前六宿400周年の記念事業を計画しています。
みやまいいまち会 クリックして見て下さい。
新 「みやまの今週のニュース・出来事&ゼラニウムの花」
新 「人間性を育てる精神文化について」
みやま市観光協会公式WEB
みやま日和(みやま市観光協会ブログ) クリックして見て下さい。
新 「福岡都市圏の皆様!ほたる火まつりバスツアーが出ます!」
清水寺住職の講演、「人間性を育てる精神文化」
梅野家歴史資料館 みやま市瀬高町大草女山932
梅野家庭園 4月 5月 新緑 11月 季節を楽しんで下さい。
西日本新聞フォートサービスで梅野家庭園の写真(4月28日撮影分)を販売しています。
私の目標 今一番大事なことは絆 を育てること。