南校区にあった渡し 南小学校創立50周年記念誌より。
①東津留の渡し
津留村が二分され、東西に分かれたのは、元禄14(1701)年以後で、この辺の川の改修は享保5(1720)年以降であろう。改修の役人は田尻惣馬であっらしい。
この改修によって六合古川にあった渡しがここに(現在の津留橋下流約100m地点。そこに今も刎(は)ねの一部があり、当時の面影を残している。)移されたと考えられる。従って東津留の渡しは享保年間(1720年代)から始まったと思われる。昭和の初めは県道であったので無料であった。
渡しは左岸を護岸して刎ね(陸への荷場所、人の乗り降り場という役目にとどまらず洪水の防止など、いろいろの多目的で築られたもの)がり、右岸はよし野が広くあって桟橋があり、潮が引き刎ねがあらわれると船橋(川の中央に船を止め左右に板橋をかける)をかけ、そこを歩いて渡った。船橋の時間(約2時間)は渡し守りは一休み。潮が満ちはじめると板橋をはずし舟で渡っていた。
渡し守りは「タンさん」と言っていた。左岸の堤防うちがわにの中腹に番小屋があった。「タンサーン、わてっくれんのー」と呼べば「おーい」と返事しながら、すたこらすたこら下りて来てギッコラギッコラとやって来て渡してくれたものだ。
朝6時から夕方8時までが渡し守りの働く時間で、それ以外は時間外の勤務となっていたらしいので特別相談して渡してもらっていたとのことである。
浜田校から夜おそく柳川方面に帰られる先生方は江浦か瀬高に廻って帰られたそうである。
旧津留橋(木造)ができて渡しは廃止されたが、昭和28年の大洪水で流失したため現在の橋(昭和33年11月竣工)ができるまで約5年間、渡しが復活し、その時の渡し守りは「シッちゃん」という人だった。
②泰仙寺の渡し
泰仙寺が鷹尾から分かれたのは、寛永15(1638)年、矢部川の改修が行われた時のことである。従って、泰仙寺の渡しは、この頃から始まったと思われる。それ以前は、泰仙寺と浜田との間に矢部川が流れていた。泰仙寺の渡しも同様番小屋があり干潮の時は、船橋がかかり歩いて渡っていた。
船も同じく長方形の平たく浅い渡し専用のものであった。渡し守りは「シンさん」と言っていた。ここの渡しは有料であったようである。村の各戸から米をぬいて渡し守りに渡していたそうで一回一回金を払わなく渡っていたそうである。後はしばらく「ハヤトさん」が引き継がれておられたそうである。
③堀切の渡し
堀切の渡しは、明治34年以前までのことである。満潮時から干くまで船頭の「フウさん」から渡してもらっていたそうである。船は長方形の平たいものであった。
干潮で真中が狭くなると船を南向きに浮かべ両岸から板を渡し船橋を作ってもらい、歩いて渡っていた。船の渡し賃は一回5厘くらいだったそうである。村内の人からは年末に各戸から米をもらい、他村の人は金を払っていたらしい。もうその時代から100年も過ぎた遠い昔のことである。後には「友さん」が引き継ぎ奉仕してくださった。
明治34年に板橋(歩くとガタガタ音がしたのでガタガタ橋とも言った)ができたが、村人の頼母し講を守り立てて援助したそうで渡り賃を受け取るため番小屋を作り、金投入箱が設けられていたそうである。
20年経過したら橋の板は破れ、大水の時はゆらゆら動いて危険になった。町の肝煎りで、県でコンクリート橋のかえられた。それは大正9年のことである。
昭和37年、飯江川改修工事に伴い、浜田、江浦線も6.4mに幅が広められ前の橋の5mばかり上に高く架設され今に至る。
この丁字橋の東側の川岸に昔の船つき場の跡に細く古びた杭が残り昔の面影を偲ぶことができる。
④長島宇津の渡し
宇津の渡しは、いつからあったのか明らかではない。文化9(1812)年2月の伊能忠敬の測量日記に、長島本村字宇津12間とあるが、渡しのことは記されていない。しかし、三池街道(三池ー瀬高)であるので渡しはあったと思われる。
その始期は明らかでない。江戸の初期の参勤交代が始まって以来のことであろう。大名がここを渡る時は臨時に漁船が徴用されたかも知れない。
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