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千寿の楽しい歴史
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2012高田行宮址を考える(後編)・千寿の楽しい歴史
高田行宮址を考える(後編)

高田行宮址と楠の木     大牟田市歴木(くぬぎ)   高田公園内

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ふるさと散歩  ~大牟田再発見~    文・藤吉齊   絵・中川原廣吉

むかし肥後国一円に勢力をほこって朝廷に抵抗していたクマソを平定しての帰り路、景行天皇は高田の里に立寄られ、こkに仮の御殿(行宮)を建てて滞在された。

その頃、行宮のそばに巨大な木が倒れていて、人々は倒れた木の上を道路がわりに利用して歩いていた。珍しく大きな木があるものだと不思議に思われた天皇は、「この木はなんという木だ」と尋ねられると、物知りの老人が「これはくぬぎと申します。立っていたころは970丈(約30m)あって、朝日が当たると肥前の杵島岳をかくし、夕日が当たると肥後の阿蘇山を覆ったといいます」と答えた。

天皇は「珍しい木だ、これは神の木である。これからはこの国を御木(みけ)と名付けよ」といわれた。これを記念して、大正4年に高田行宮跡の碑が建設された。

書は立花種忠(三池藩11代当主)のものである。  

旧柳川藩志  中巻  柳川山門三池教育会編  p114

高田の行宮

三池町字高泉にあり。これ景行天皇西巡行宮の遺跡なり。およそ1反斗り高磑隆起自ら1区をなせりり。
大間と称す。村の地名に帝橋行宮池などあり。日本書記に曰く。(略)

この歴木の地中に埋もれたるもの今なお往々掘出すことあり。その質堅緻にして紫黒色なり。
陸前名取川の埋木に類古色掬すべし。田隈旧記に曰く。

今は上高田、中高田、下高田とて字に残るのみなり。側の小高き山を高田山と云う。昔御手洗の跡とて今御手洗という字ありと。

高木の里   岩津村大字岩津の高木の里は景行天皇行宮の旧趾なりと。

三池群誌 福岡県郷土誌叢刊   P675

高田行宮址

歴木字高泉にあり。日本書記に曰く。景行天皇18年秋7月30日、天皇到り筑紫後筑後国御木国高田の行宮に居ると、これ天皇熊襲親征の時御駐輦(てぐるま)なされしところで有る。前地附近の小字に帝橋、筒井御手洗、御幸返等が有る。

大正4年秋今上天皇御即位大典きねんんとして、本群教育委員会ここに碑を立て居る。

扶桑木   高田行宮趾付近に古代の埋木が産する。先学これを名づけて扶桑木と云っている。(略)

高田町誌  福岡県三池郡高田町  P575~577

高田行宮の聖地址について

高田行宮の址は、三池群教育会の手によって三池町高泉の地を相し、ここに記念碑が建立された。

当時聖地の位置について問題が起り、一時騒然としたのももっともである。これは千古の疑問を解決する大難事である。

問題は三池町高泉面か、それとも岩田村高木方面かということである。当時は最も興味深く又憂慮された問題である。造詣深く識見高いその道の権威者の史的立場より裁断は下された。ついに「高田行宮址」と子爵立花種忠の筆により、記念碑は三池町高泉の地に建立された。永久に景行天皇高田行宮の地は決定されたのである。

時は過ぎて、昭和の今日云々するのは誠に愚痴もまた無知の事であるまいと、ここに蛇足を添える次第である。

高木の天神さんは高皇産霊神を祭祀してある。相殿はなく一柱であり、また天神である。所在地は旧岩津村字高木である。殿堂は4坪半、氏子は38戸、神田7畦9歩と神社帳に記載してある。址地は高木山の中腹にあって老松に囲まれ、詣者をして自ら神気を覚えしめる。山麓一帯の丘地には昔日の屋敷址と思われる畑地または竹林が随所にある。

この近郷には清泉が湧出している。古老の言によれば明治以後次第に水は渇れたが昔の泉の蹟は残っている。しかし2ケ所の泉は今も付近の人の飲料水として滾々(こんこん)と湧出している。古代において旅人が泉から泉へと泉伝いに、また山麓に沿って往来したことが偲ばれる。また泉を中心に部落が発生した史実も証明される。

山の頂上は眺望が特に絶景で、西に白縫の海を隔てて多良の連峯を眺め、足下には西北ともに自然または人工開拓の筑後平野を俯瞰し東北方には清水、巨泉(こそぢ)の連峰が望まれる。この山頂は前方後円墳にして上楠田の古墳と相似た点がある。但し上楠田のは石棺あるが、高木山のは箱式石棺である。大中小の3棺の内、大棺は慶応年間に里人の開墾中に発掘した。中棺は不明である。小棺は確か昭和24年8月ごろ、開墾中に発掘されたと記憶する。古墳は千六七百年前のものである。その当時の文明の様相が偲ばれる。

次に延喜式々内陣の位置である。付近に栗栖田神を祭祀する上楠田天満神社と、埴生国玉神を祭祀する上楠田熊野神社がある。また長島国神は長島、小川神は小川、宇津良比女神は宇津、大神神は大神、大江神は大江に鎮座ましましている。また伝説によれば景行天皇の御巡路は神崎を経て後田に来り唐川原を過ぎて高木に御駐輦(てぐるま)遊ばした様である。

現在、神崎には五大王神社があって、氏子は誠に高貴なお方であるとして尊敬している。神名帳によれば仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰外二体である。後田の十王神社は、俗に十王堂と称している。殿宇内には木像十二体で祭神は神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、考安、考霊、考元、開化、崇神の十代天皇である。

昔の高木はもっと広い地域である。現今の岩津付近まで含まれている。岩津の地名は海岸線に突出した岩の津である。九躰神社は御鎮座の年代が不明である。これは五大王神社も十王神社も同様で只々古いとのみ伝えられている。九躰神社には斯礼賀志神、朝日豊盛神、暮日豊盛神、外六体である。

南筑明覧に「岩津村なる高木の里は、景行天皇行宮の旧蹟なり。」日本書紀に曰く。(略)

高木

高木のは、古来我国にては崇高の意味に用いられる。山の厳々としてけだかき容姿を見れば神々しく感じ、霊の鎮りますと解釈する。山崇高なれば人皆仰立する。高はあがめ貴ぶ意味なり。山岳の高低を問わず。深山幽谷は云うに及ばず。殆んど神仏の霊の厳存を確認している。高は、古代より田畑の収穫の規準である。それを転用したのが石高である。

は字源から見れば五行の一にてその首位に当る。人に配すれば君主に対して臣である。方角から見れば、日の出での東天の意義あり、季から見れば万物生々進展の春である。
」は城に通ず。城戸と書けば「きんど」である。城の門に当る。城は宮殿の意義がある。

古語よりを考察すれば(みか)閉高知「みかのへたかしり」崇め申し仰ぎ奉ると解釈する。同じく舎殿でも「宮殿」と書いて「たかどの」と読む。付近の長島は天智天皇の御駐輦(てぐるま)である。なぜこの地に御行幸遊ばしたか、吾人は真心を持って熟考したい。

かかる聖地なればこそ、新賀江宝満神社の旧記に、「天武天皇白鳳九年筑前国竃門宝満宮を筑後国御木郡高泉の里高田にある所の僵樹の穴に崇祀す。又御木国造の後裔高木城主宇冶正連の孫、宇冶正永の臣日奉の邑」云々の記録がある。

日奉は「てるとも」と読む。この高泉とは高木の里の泉にて、泉とは前述の通りでこの地方は泉が数ヶ所ある。

宇冶は宇津の渡しである。潮の干したる時に馬を鞭うつて浅瀬を渡る、すなわち「むちうち」より転じて宇冶、宇都、宇津、打つ、となり地名となる。しばらくしてその土地の豪族は姓なき者は地名を以って姓となす。
宇冶正永、日奉臣後代の小宮、中原、その他となる。宝満宮の旧社地は今も残存している。

九州を制覇した大王(景行天皇巡行記)   河村哲夫著

八女国の女王   P171

阿蘇地方の巡幸を終えた景行天皇は、山を下り、菊池川を下って、長渚(ながす)の行宮に帰還した。

長渚の浜を出発して、ふたたび北上を開始し、矢部川河口をめざした。7月4日、三池郡の「高田の行宮」に到着した。7日?、八女県に着いた。

大牟田市歴木(くぬぎ)の高泉という場所が、高田の行宮の地と伝えられている。

※矢部川河口とはみやま市と柳川市の間にある付近である。

※明治22年4月1日、岩田村は原村、岩津村、今福村、田尻村が合併して町村制度が実地せられる。

高田行宮の場所が大牟田市と決定されてはいるが、まだ疑問が多いところである。天智天皇の巡幸地に近いこと、矢部川河口と飯江川付近には古い時代から船(舟)の航行が多のくあり、由緒ある史跡・宮が多い。

これからの研究課題としたい。








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by kusennjyu | 2012-06-08 18:28 | 歴史学習会
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