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2012真宗大谷派明願寺の歴史・千寿の楽しい歴史
真宗大谷派明願寺の歴史

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真宗大谷派 明願寺  

住所 〒839-0214 福岡県みやま市高田町今福42-2 
  
電話  0944-22-5809


三池郡誌 大正15年6月20日初版発行より。

本尊 阿弥陀如来  

所在地 今福 境内堂宇344坪・49坪 信徒 2500人  

記事 天文11(1542)年實念開基

高田町誌  昭和33年10月1日発行より。

今福にある。真宗の大谷派で、本尊は阿弥陀如来である。開基は定念で、はじめ天文11年(1542)同村中牟田に創立し、本山証如法王より本号を授与され、その後に現地へ移転した。本堂、庫裡、鐘楼、山門がある。

鳳城山明願寺の由来  先代住職の記録より。

世上一般の、それぞれのお寺は、それぞれそのお寺なりの古事来歴によって創建されたものと推察いたします。

私たちのお寺である鳳城山明願寺創建の事情は、文永11(1274)年10月と、それから7年後、弘安4(1281)年6月の2度に亘る蒙古高麗連合大軍の来襲に始まるものではなかろうか。

私たちの祖先は、この元寇の役に、肥後の住人菊池次郎武房の率いる精鋭の一隊として勇戦し少なからず犠牲者も出たものと思います。

次いで後醍醐天皇の御代、武房の孫武時は、天皇の綸旨を戴き楠木正成、新田義貞等と共に横暴の限りを尽した鎌倉幕府を攻め菊池武重の大奮闘もあって北条高時を滅ぼし千辛万苦の末、「建武の中興」は成ったが、菊池軍にも相当の犠牲者が出たであろうし傘下の祖先の方々も尊い命を落とされたのではないでしょうか。

そのため、その戦いの論功行賞の時、楠木正成によって菊池武時・武重父子の功績を第一位に取り上げられたので足利尊氏はそれらを不満として後に謀反を起こしたので北畠顕家、新田義貞、楠木正成等と共にこれを鎌倉に攻め尊氏は叶わじと見て少弐、大友、島津を頼って九州に逃れました。

九州では菊池軍はこれを徹底的に攻め一時は流石の尊氏も今はこれまでと思わせた場面もありましたが、菊池軍として頼むは阿蘇大宮司の阿蘇氏のみで日向の一部を除き九州は殆んどが全体が尊氏に組みし、留守を守る菊池軍は苦戦の連続で、尊氏は遂に九州全土に号令するに至りました。

その間、菊池軍の一出城であった瀬高本郷の城も落ちて城主古賀大膳太夫(後明願寺初代住職となられた人)は一族郎党と共に善戦されましたが、遂に破れ城を焼かれ身をもってこの地に逃れられました。

それで人生の果かなさ、世の無常をしみじみと感じられ、文永・弘安の役以来、建武の中興の前後、尊氏の九州平定等、度重なる戦いにおいて尊き命を落とされた一族郎党部下勇士の方々の御成仏を御冥福を祈るため出家され、この明願寺の地において年に一度、周囲や敵に気付かれないように遺族と一緒に回向法要を営まれたそうであります。時に建武3(1336)年、およそ今を去る650年の昔であります。

このような事情で明願寺が創建され、私たちの先祖の遺族が門徒となって護持し、お寺を盛り立てて来られましたが、お寺として形態の整った御堂が建立されたのは足利の室町幕府の勢力が弱まった大分後年のことでございます。

このように古賀大膳太夫殿を初代として、その後後裔の方々が代々の住職になられ、そしてその時以来の遺族が門徒となり遂に今日の第28代の新住職、古賀祐法師の代となったものであります。

明願寺の歴代住職名

初代 實念 後醍醐天皇の御代、建武2年、古賀大膳太夫出家して菊池一族を弔うため中六田(高田町中牟田に庵を建てる(650年前)。

2代・3代・4代  3代郎党の間で世襲する。

5代 定念 御奈良天皇の御代、天文11年、この時、現在地に堂宇を建立。当初は禅宗で開基したが、建立の際、東本願寺證如上人から阿弥陀仏の御絵像を授与され真宗東本願寺の末寺となる。

6代 宗西
7代 祐念
8代 浄圓
9代 行念

10代 祐正 元和2年5月、宣如上人から御水尾天皇の御代からに始めて大谷派明願寺の寺号と御本尊  阿弥陀如来の立像を授与される。続いて11月9日、御絵仏様を授与される。
        願主 祐正、製作 月香、施主 石井隼人、栗津勝兵衛。

11代 祐智 
12代 宗茖
13代 祐哲
14代 祐讃
15代 祐巌 寛延2年、祖師聖人の御絵像の授与を受ける。
16代 慧巌
17代 祐法
18代 密門
19代 至巌
20代 頓蔵
21代 得髄

22代 融圓 片平の極妙寺から養子。明治天皇の御代、第22代 、見如上人の時、御本山の別院を四日市に建立する予定であった木材が小さすぎるということで、別院の用材にならなかったので、相談して譲り受けた木材で再建したのが現在の明願寺の本堂である。
        その時は、9間4面の用材であったが、8間4面とし当初は萱葺であった。
        昭和  年、瓦葺にする。明治19年着工、明治22年4月上棟、総﨔である。

23代 義圓
24代 融照
25代 知空 日露戦争、沙河の激戦で戦死。

26代 知然 明治36年10月4日得。昭和27年5月28日、依願免職(70歳)。
        昭和27年3月30日、宗教法人として登記完了。

27代 知昭 昭和11年4月10日得度。昭和27年5月28日、住職となる。
        昭和59年11月6日、依願免職(70代)。

28代 祐法 昭和42年7月7日得度。昭和59年11月6日、住職となり現在に至る。

蓮如上人五百回御遠忌  開基四百五十六年記念事業 現本堂建立百八年
    
明願寺本堂修復顕彰記念碑  


着工 1999年5月1日   完成  2000年11月30日 

  









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by kusennjyu | 2012-07-28 04:32 | みやま市の歴史 |Topに戻る