瀬高町の文化財(県指定建造物) 瀬高町の文化財(平成2年3月31日発行)より。
清水寺楼門 県指定建造物
指定 昭和36年4月18日 所在地 瀬高町本吉字清水谷119の1

門は一戸二重門、木造入母屋造、階上階下とも36.3平方メートル。造営当時は桧皮葺であったが現在は銅板葺にかわっている。
棟木銘によれば、延享2(1745)年5月上棟である。柳河藩6代目の藩主・立花貞則公が願主となり大城源右衛門を大棟梁として建立している。
当時の柳河藩建築技術水準を示す建築物と評されている。二階の三間×二間の平面には釈迦如来、文殊師利菩薩と、この二尊を守護する、持国・広目・増長・多聞の四天王像を安置している。
この建築物としての格調高い楼門の構造について福岡県百科辞典には次のように述べている。
「石敷き二重基壇、下層は獅子前軀が両端を支える紅梁で、藩主立花家の家紋祗園守のつく蟇股(かえるまた)、透かし彫り木鼻をもつ頭貫(かしらぬき)、台輪上に二手禅宗様詰組。
鏡天井とし飛天(ひてん)を描き、二階内部へ通じる階段は両脇間裏側に二基設置している。二階は三間×二間で、内部棟通りにも二本の柱があり、この柱間に仏壇を設け、祗園守紋をおく桟唐戸(さんからと)の中に前述の仏像を安置してある。
上層軒組は尾垂木(おだるき)をもつ禅宗様二手先とし、上下層と六枝掛、二重繁垂木(にじゅうしげたるき)とし銅製の飾り金具を打ってある。かつては木部に丹塗がしてあったという。」
清水寺三重塔 県指定建造物
指定 昭和30年3月5日 所在地 瀬高町本吉字清水谷39の1

この塔は江戸時代から計画されていたと伝え、相輪だけは早くから作られたらしく、伝説によれば観世音に信心深い長崎の遊女の寄進によるという。
塔の第三層の屋根が大きくなって見えるがこれは建設の中途で、大工棟梁の宗吉兵衛が亡くなったので、嫡男がこれを受け継ぎ、当初五重の塔の計画を三重の塔に変更したと伝えている。
建築費に窮迫した記録もあって経済的な要因もあったことであろうか。実は文政5(1822)年、柳河10代藩主、立花鑑賢のころ、柳川領内住民と近国信者の寄進により大阪の四天王寺の五重塔を模して当時の金額で二千両を費し天保6(1835)年11月上棟、翌年11月21日に落成したという。

塔は三間四方、木瓦葺、各層とも中央間扉、両脇間連子窓、規模は、一階で中央間2.46m、脇間2.15m、総高は礎石上端から九輪(相輪)頂まで約26.5m、軸組、軒組は各層とも同じで柱間は長押(なげし)をまわし、頭貫(かしらぬき)でつなぎ、丈高い台輪上に一手先(ひとてさき)までは横に広がらない尾垂木(おだるき)をもつ三手先(みてざき)の和様組物をおく。間斗束(けんとづか)六枝掛を踏む二重繁垂木(にじゅうしげたるき)をあげている。三層だけは扇垂木(おおぎだるき)にしてある。
心柱は一階天井上の梁上から立ち上がっている。各階とも四天柱内は周囲床より70~80cm高くなっている。一階だけはこの上にさらに仏壇があり、現在新たに釈迦如来を安置してある。
太平洋戦争後、白蟻の被害等により荒廃し倒壊寸前にあったので、昭和38年当時の町長壇幹一氏の初願で三重塔復元奉賛会を設立し、地元はもちろん遠く関西方面からまで浄財をあおぎ昭和41年、1800万円を費し解体復元工事を完成した。その後、瓦の破損がひどく、再び5000万円を費し昭和59年に修復された。優美さと荘重さを兼ねた姿は清水山の自然とよく調和して、すばらしい景観となっている。
塔のインドでの原意は塚塔である。しかし、現代の日本ではむしろ高い建造物の意に用いられている。塔は寺院の堂塔の部で本来は仏舎利(釈迦仏の遺骨)を納めて礼拝する仏教信仰の対象物である。
建造物の各部名称
(続きます。)
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