瀬高町の文化財2 瀬高町の文化財(平成2年3月31日発行)より。
法華経千部逆修板碑
指定 昭和43年10月29日 所在地 瀬高町本吉字清水谷1119
清水寺本坊入口向って左に建っている。石質は安山岩で縦横1m余、厚さ22cmの自然石の堂々たる掛(けい)線板碑である。
中央上部に釈迦三尊を表現した梵字の種子字(しゅじじ・種字とも略する)を彫り、中央に「奉読誦(じゅ)法華妙曲一千部逆修所」と表示し、これをはさんで、上段に願文(がんもん)、下段に結縁僧尼の名がある。天正18(1590)年3月18日に建立されている。
法華経は正しくは妙法蓮華経と称し中国・後秦鳩摩羅休(くまらじゅ)の訳・すべて28品(巻ともいう)からなり、この経では、釈迦仏は永遠の過去に仏となったと説き、これを本門の久遠実成の釈迦如来という。
この世に生誕して35歳で悟りを開き、80歳で入滅した人間釈迦は、門の釈迦とよび、衆生教仕のための方便・かりの姿であると説く。
法華経の中には、たとえ話が多く、薬草喩品といったり、火宅の比喩を説いている。第25巻目を観世音菩薩普門品といい、釈迦が説いたという形で、観音の功徳について説明されているので、俗にこれを観音経という。
逆修とは(1)存命中に自分のため法事を修め冥福を祈る。
(2)一家縁者、眷属の物故者のためにその冥福を祈り供養をすれば、功徳の多くは供養する者に報いられるという意味がある。
貝製雲珠 県指定考古資料
指定 昭和34年3月21日 所在地 瀬高町大草字女山長谷

大草女山中腹より昭和33年頃、出土したものである。
貝はひも貝が使用され、笠形をした貝の中央に穴をあけ、金銅製の棒を通し、貝の上には花形の金銅製金具を付けている。古墳時代後期の古墳の副葬品である。

「雲珠とは繋(つな)の交叉するところに付ける馬具(辻金具)の一種で、特に尻繋(しりがい)の金具は装飾的に発達し、古墳時代には半球形のもの、透彫のある金銅製品で内部に鈴を入れたたもの、中央に瓔珞(ようらく)を付けた立飾(たてかざり)をそなえたものなどがある。朝鮮慶州の金冠塚出土例ではガラスを挿入している。
金銅、鉄地金張りなどの製品があって、周囲に繋、杏葉(ぎょうよう)を結ぶ脚が張り出している。尻繋の雲珠の脚にはかなり脚の多い例があるといわれている。また半球形の内部に巻貝などを挿入した例もある」という。
堤古墳群 未指定考古資料
所在地 瀬高町山門字東塚原・西塚原
山門字堤にある。堤全体が古墳群地帯といわれ、南北220m、東西220m程の正方形に近い部落で、いわば方墳といってよい所である。中央を南北に走る道路があり、東を東塚原、西を西塚原という。往時に塚の上に堤部落が出来たのであろう。
東塚原に三方囲いの墳2個、西塚原に5・6個がある。石の大きさは地上に露出せる分、長さ2.8m、厚さ1.2m、、幅1.8m位である。近年、同地の人が巨石の下から金製の腕輪を発掘して家宝としていたが、病気が絶えず祟りを恐れて埋めたという。
大正2(1913)年、大和町の郷土史家石田昌氏の発見によって、邪馬台国卑弥呼の墳墓説が唱えられ卑弥呼の墳と考える向きもあるが明らかではない。
弥生土器や石棺等が発掘されているので弥生時代の墓地の上に造られた古墳後期の土豪んぽ墳であることは間違いない。巨石は質が堅い石材で縁泥岩である。
女山の銅鉾 未指定考古資料
所在地 瀬高町大草字産女谷

この中広銅鉾は、昭和30年3月6日、女山神籠石内郭、標高79mの舌状洪積台地斜面で発見された。
出土状況は、崖斜面に2本重なって刃先を東向きにした状態であったという。このような銅鉾の型式および出土状況から、本来は武器であった細形の銅鉾が弥生時代後期になると大型になって祭器化し、農耕祭祀のあと土中に重ねた状態で埋納されたものと考えられている。
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梅野家歴史資料館 みやま市瀬高町大草女山932
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