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千寿の楽しい歴史
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2012柳川藩の能面と能装束・千寿の楽しい歴史
柳川藩の能面と能装束    

平成24年9月26日 みやま市歴史講座資料より。

1・立花家から新開能狂言保存会への寄贈

昭和23年に、その半数以上が、宝満神社の神事能(福岡県指定無形民族文化財)を伝承する新開能狂言保存会へ能面・狂言面・装束とその関連付属品が寄贈された。

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2・能の式楽化

(1)豊臣秀吉が四座を保護する。   
  大和猿楽系の四座(観世・金春・金剛・宝生)に配置し当米や扶持を与えて保護した。

(2)江戸幕府と能
  能楽を奨励し豊臣秀吉が四座保護策を継承し全国の能役者が漸次四座の役者の統制下に組み込まれ   る。
  

(3)喜多流の樹立
  金剛座の北七太夫(1586~1653年)が秀忠・家光の二代の将軍の愛顧を受けて一流を樹立する。
  以後、五座(四座一流)が能会の主流となる。

(4)大名家と能楽
  幕府の能楽奨励にならい能役者を召し抱えた幕臣に能を習わせるなど自藩の能楽の充実に。

3・柳川藩の能

立花家と能楽の関わりについて最も古い記述は、立花家初代宗茂によって再興されたといわれる宝満神社(福岡県みやま市高田町)に猿能楽が奉納されたことを記す史料で 

「寛永17年11月9日祭礼に猿能楽あり、その後、例となし、美麗これを勤める。君公の代参社役これを務める」とある。

この「美麗」とは、平安時代末期より三瀦郡玉垂宮大善寺(福岡県久留米市)に奉仕していた田楽師美麗に祖をもつお抱え能楽師と考えられ、柳川藩お抱え能楽師についての最も古い記述である。

この美麗田楽の嫡流である梅津家に伝来する文書によると、代々三瀦郡の鎮守玉垂宮大善寺に田楽などの神事芸能を奉仕してきた家格であり、古くは三瀦庄獅子勾当職のほか鯵坂庄(福岡県小郡市)神楽政所職などを務めていた。

江戸時代に入ると、梅津本家は久留米藩有馬家に、分家が福岡藩黒田家に、そして三橋姓を名乗る別家が柳川再封後の立花家に出仕すっることになる。

能頭三橋教阿弥は三瀦郡夜明之内、3町5反円道寺分の知行を与えられ、享保元(1716)年までは宝満神社奉納能を美麗が一座16名ほどで勤めていたといわれている。その後、立花家の能はシテ喜多流、ワキ宝生流を伝えている。

4・藩主の能

歴代藩主自身が能楽とどのように関わっていたのかは未だ詳らかではないが、寛永後期半頃、細川忠興による徳川家光の能について言及した書状に、立花家初代宗茂と能楽の関わりについて、わずかながら記述がみられる。

「次に、江戸にて御能切々仰せ付けられ、水戸殿(徳川頼房)、加式部(加藤明成)、毛利甲州(毛利秀元)、有馬玄番(有馬豊氏)のワキ、政宗(伊達政宗)の太鼓、飛騨殿(立花宗茂)の狂言、いずれもいずれも、たぐいなき御慰たるばしと存じ候、」

宗茂は狂言を得意としていたのであろう。

立花宗茂は一旦は改易されたが、徳川秀忠・家光の御噺衆として重用され、将軍御成りの御相伴衆を務めることもあった。茶事や能への見識は浅からぬものがあったと想像される。

秀忠が喜多流の強力な後援者であったことを考えると、立花家が喜多流を庇護したのは、宗茂の頃からであったかもしれない。しかし、二代藩主忠茂以降、能に関わる記録は大変に少ない。

次回は「新開能」の概要を紹介します。




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by kusennjyu | 2012-09-28 21:25
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