2012岩田小学校思い出(昭和時代)1・千寿の楽しい歴史

岩田小学校思い出(昭和時代)1
亡くなった父と同学年である。
『懐かしい級友たちの思い出』
昭和5年3月卒業 (誤記で尋常科は4年・高等科は6年卒業) 廣田林人
私は大正12年4月、岩田小学校に入学しました。当時は東の門が正門で、石段を登って運動場に入り、教室に行っていた。コの字型の校舎で石廊下に踏板が並べてあった。今では昔日の面影はない。
同級生には、松野頼三さんが岩津の野田さんの家(現在山下秀夫氏在住)から来ていた。頼三の母タキノさんは野田卯太郎氏の二女で熊本の代議士・松野鶴平氏に嫁がれたが、夫鶴平さんは東京住まいが多かったので、母子、郷里で暮らしていた。
頼三さんは、学級で1~2番に背が高く、久留米絣の着物に日本手拭いをきちんと織って右側に下げていたことを、今でもよく覚えている。体力もあり、田尻の旗崎家の永江賢吉さんとよきライバルであった。
しかし、僅か4カ月の友達で、兄さんの進学のこともあったようで8月末に東京に行かれた。時あたかも関東大震災で子供心にも心配したものである。
その後、昭和41年8月だったか佐藤内閣の農林大臣になり、松野鶴平参議院議長と共に、野田大塊さんの墓参りに来られ、同級生一同、岩津の原さん宅に集まり、いろいろと話がはずんだものである。
また、1年の終わりに坂梨辰夫さん(注:山川町出身の代議士・坂梨哲氏の孫)が田尻の石橋酒屋より通学していたが、彼は頼三さんと対照的で、当時としては珍しいモダンな開の洋服を着ていたが、3年1学期の中頃に転校した。
後の話では、太平洋戦争中に、海軍の将校として鹿児島にいて、部下であった今福出身の人に「自分も岩田小学校に在学していたので大変懐かしい。」と言っておられたそうだ。その後、どうされたでらろうか。前記の永江賢吉さんは、日本製鉄の重役、その後は子会社の社長をなさっていたが、どうされているだろうか。
同級生は36名(男子22名・女子14名)だったが、戦死その他で現在10名も残っていない。
(岩田小学校の創立120周年記念誌は平成8年3月発行で、その当時が10名である。)
、
現在生きていれば大正5年生まれの満96歳で、私が知っている人では、殆んどが亡くなっておられる。

昭和6年3月高等科卒業生
26名(男子19名・女子7名) 女性は半分になっているが女学校にいったのだろうか?

現在の岩田小学校は正門がまた東側に変わり車が入る。西側からも人・車が入られる。北側の階段は使用されていない。苔が生えて危険な状態になっている。
私が読んでも懐かしい人がでています。名簿を見れば10人くらいは知っていました。
「永江賢吉さんは、日本製鉄の重役、その後は子会社の社長をなさっていたが、」とあるが、今福の日本製紙(今は建物はない)があったが、鉄は紙の間違いだろうか?
子会社の大王製紙(濃施)は今も生産を続けています。
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