2012岩田小学校思い出(昭和時代)2・千寿の楽しい歴史

岩田小学校思い出(昭和時代)2
『昭和初期の岩田校』
昭和10年3月卒業 野田菊一

達の小さい頃の小学校は、建物も今とは比較にならない古い校舎で机等も、今考えてみると傷だらけの粗末なものでした。
学校の正門は北側の県道から川の上に架かっている石橋の入口に「岩田尋常小学校」の表札がかかっておりました。階段の両側は今もある傾斜地に杉の木が繁り、雑木も混じって道路から見れば、小高い山の感じがしました。(現在、大きな桜の木があります。)
見知らぬ人が、「あれが小学校か、俺はお宮かと思っていた。」と話されるのを何度か聞いたことがあります。
校舎は、まず北の校門側から低学年で、一番南の今の正門側の運動場に面した方が上学年の校舎になっていました。

現在の運動場のところは一面の桑畑で、境界には柴垣が植えてありましたが、所々に子供の通り抜けられる程度の隙間が出来ておりました。一番西の角に裏門があって、原の人たちの通学路でありました。
休み時間になると、私達は柴垣をくぐり抜けては、桑の実ちぎりによく行ったものです。桑の実を食べて口の辺りを青黒く汚すので先生にすぐ見つけられ叱られたことを思い出します。

通学のときは、今のように自動車はなく、自転車もめったに通りませんから道いっぱいになって歩いても、そう危ないことななく、よくふざけながら歩いていました。
その頃の服装は、低学年は殆んど粗末な和服で、上級生になると頃から洋服に変わっていましたが、女子は全員和服を着ていました。高等科になると女子は和服に袴を着けていました。
その頃は、いまよりも貧乏の差が大きかったように思います。地区に何人かの大地主が居て、殆んどの住民は小作人で細々と生活しておりました。今のように給料取りの人は殆んどいなかったように思います。
大地主は富と権力で有形無形の圧力を加えていました。その威圧は地区に対してだけでなく、学校にまで及び、その子弟に対する先生方の姿勢も違っているのを子供心に感じていました。もちろん先生方の中には気持ちよく思っておらない方もあったようです。今考えて見れば一つの時代の流れであったろうと思います。
高等科まで8年の中で担任の先生は数多く、低学年の頃は次々と交代されました。半年で代わられた先生や、1年間受け持ちの先生が多く、3年間教わったのは、元高田町教育長をされていた飯江の今村先生だけでありました。岩津の人で以前は海津から勤めておられた藤岡多一先生からも1年間習いましたが、数年前に故人となられました。現在、近くにお住まいの先生は今村先生のみのようであります。
勉強に関しては、今のように教育ママさんは居なかったので、一部を除いては普通、やかましく言う親は少のうございました。宿題はかなり沢山出されていました。しかし忘れてくる者もありました。お金持ちの子は別で、家事を手伝う者がほめられて喜ばれていました。
思い出の一つに5年生のときの台風があります。昔は二百十日、二百二十日というと、よく台風が来ていたように思います。何時間目だったでしょうか。
授業中に段々風が強くなり、一番南の校舎の教室の横に杉の木が並んで立っていましたが、そのかなり太い杉が身を震わせて大きく傾き、起き直っては又傾き悲鳴をあげているような姿が強く印象に残っています。右に左に振り廻され、いじめられていた杉の大木は、窓越しに眺めている私の目の前で、不気味な音をたてて遂に倒れました。(現在は運動場側に杉の木はありません。)
風が大分弱まった頃、道路に出ると、今の三栗野金物店の前に居られた江崎さんの家が倒れておりました。道路には至るところに電柱が倒れ、木の葉が散乱しており、ぼうぜんとなる気持ちでした。その後、今日まであんな激しい暴風雨の経験はありません。
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