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千寿の楽しい歴史
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隈部氏館跡を訪ねて・千寿の楽しい歴史
隈部氏館跡を訪ねて   10月3日   山鹿市菊鹿町上永野字高池

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隈部氏館跡からの遠景(左が熊本市の金峰山です。)

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左~館跡全体風景    右~庭園跡

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隈部館跡の図面と礎石

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左~掘切(空堀)  右~枡形虎口

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掘切(空堀)~全体で3本の掘切が残っていますが、この掘切が最も規模が大きいものです。長さ75mで幅は最大20mを超えます。入口から主郭へは土橋でつながっています。

枡形虎口~敵の侵入を防ぐために設けられた、長方形状の空間です。北壁と西壁の石積みは現代に積み上げられたものですが、基底部は当初の石材が残っていると伝えられています。

庭園遺構~池の平面形は心字形で、立石と水落石を有しています。西縁と南縁には踏み石があって、庭に下りての観賞も意図されています。九州における戦国期の庭園文化を示す遺構としても評価されています。

隈部神社

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隈部氏館跡説明

隈部氏館跡は、中世肥後の国人(こくじん)であった隈部氏の城館跡です。天正15(1587)年に起こった「肥後国衆一揆」の中心人物となった隈部親永が、隈府(わいふ)城(現:菊池神社所在地一帯)に移るまで本拠としていました。隈部氏は、大和源氏の宇野親治を祖にするといわれ、赤星氏・城氏とともに、肥後国守護菊池氏の三家老でした。

江戸時代の地誌『肥後国誌』には、「猿返城跡」の城名で「永野城トモ云(略)大手舛形ノ跡 城ノ礎石井若殿ノ部屋ノ跡 庭石泉水ノ跡 花園ノ跡等于(う=ここに)今歴然タリ」とあります。記事の内容から隈部氏館跡を指していることは明らかです。

主郭の平場に上がる登城道は枡型になっており、側壁に石垣が積まれています。「城ノ礎石」と「若殿ノ部屋ノ跡」は礎石建物跡を意味し、三棟分の建物跡が確認されています。「庭石泉水ノ跡」は、庭(立石)も現存して泉水としての形を留めています。

館跡は、北東は背後の「城床」と呼ばれる猿返城跡(標高685m)の山から下る山腹中に位置します。この地点は、地形の大きな変化点となっており、山腹が急激に傾斜を減じて末広がりの緩傾斜になっています。中心部の標高は約345mで、上永野地区の「構口」、三差路からは228mの比高差があります。縄張りは、この地形を最大限に利用したものです。山腹を大規模に造成して、主郭の広い平場が出来ています。ここに礎石建物跡と庭石遺構が残っています。

一方で、館跡裏側の尾根には、やや小振りの2本の掘切が走っています。裏尾根を断ち切る遺構です。これに対して正面側の南西下には、大規模な掘切が設置され、対岸の東寄りに「(伝)馬屋跡」の張り出し区画が残っています。

昭和49年から3カ年間、(旧)菊鹿町教育委員会で発掘調査を実施し、検出された遺構は野外展示されています。その後、平成5年度から町史編さん事業に関連して補足調査を重ね、平成21年7月23日に国指定史跡になりました。

                              山鹿市教育委員会

隈部親永公像(あんずの丘に建つ)   平成23年11月26日に除幕式

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この像を仰ぎ見るとき、絶大な権力を握っていた豊臣政権に対し、地方武士の意地と誇りを持って敢然と立ち向かった親永公の、逞しく熱き心が伝わってきます。

隈部親永(くまべ・ちかなが)と肥後国衆(くにしゅう)一揆

隈部親永は、戦国時代末期に山鹿・菊池の二郡を支配していた肥後の国衆(国人)を代表する武将です。

天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州出兵の祭、彼に降伏した肥後国衆50余人には、ひとまずはその支配地を保証し、肥後国主に任命した佐々成政(さっさ・なりまさ)には新しい土地制度となる検地を3年間行わないように指示しました。

しかし、成政は検地を強行しようとしたため、親永が反発しました。この反発を抑えるため、成政が親永を攻めたのが一揆の始まりとなりました。

菊池の守山城(菊池本城)を佐々軍に落とされた親永は、息子の親泰が居城する山鹿の城村(じょうむら)城で籠城します。その間、肥後国内の国衆たちが親永に同調して、成政居城の隈本(くまもと)城を包囲しました。

この一揆を知った秀吉は激昂(げきこう)し、京都北野の大茶会を一日で取り止めて、西日本の大名たちに一揆の鎮圧を命じました。大軍に囲まれた親永・親泰親子は必死に抵抗しましたが最終的に降伏し、天正16(1588)年、親永は柳川で、親泰は小倉で最後を遂げました。

一揆終了後、秀吉から全国へ向けて刀狩令が発せられ、兵農分離が進められました。そして、肥後でも太閤検地が行われ、肥後の北半分は加藤清正に、南半分は小西行長に与えられました。

肥後国衆一揆は、肥後の中世の終わりを告げる重要な画期として位置づけられます。





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by kusennjyu | 2012-10-06 04:58 | 歴史学習会
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