「赤い煉瓦塀の三池集冶監」の歴史7
「赤い煉瓦塀」(五藤一芳著)より7回目
2人のかなり頑強な体つきをしている25・6歳の若者は、大牟田川沿いに鉄道馬車で運ばれた石炭を、横須海岸から島原口之津まで運ぶ船乗りである。石炭は島原口之津に集積され、上海や香港、シンガポールへと輸出された。
新政府の外貨を稼ぐ大きな手段で、一方では近代化のため燃料資源である石炭の重要性を強調しながら、一方では外貨稼ぎの材料に利用していた。だから何としても、石炭の増産を図ることは明治政府には最優先とされた。それゆえ囚人といえども、石炭採掘の労働を支える人力として全面的に投入させた。
7回目終わり。
探検! 三池工業の100年(鈴木裕和著)より。
稲荷村大浦坑山之図
左~七浦坑 右~三池集冶監全景(南側から撮影)

左~三井社有地の標石(亀谷町 三井化学工場附近) 右~宮浦坑(1926年ころ)

三池集冶監の正門

まとめ
明治28(1895)年には、三池集冶監の収容者は2000人近くまで増えていました。
「囚人は安上がりの労働力」どころか、使い捨ての「
消耗品」でした。
良民坑夫(一般労働者)の半分以下の賃金で、鉄砲で監視されながら働かされました。坑内火災のときには、炭坑を守るために生きたまま坑口をふさがれたこともありました。暴動を起こして、竹槍で刺し殺されたこともありました。
その上、「堀り出した石炭に悪炭(ボタ)が1.4%でも混ざっていたら1日食事なし」という罰則で、採炭効率を上げさせられたのです。
囚人の死亡者は、その多くが呼吸器と胃腸の病気だったといいます。病気の原因は、粉塵の舞う坑内労働や粗末な食事、罰としての減食などが考えられています。
左~刑務所全景(南側から撮影) 右~教誨堂

三池炭坑での囚人労働は、昭和5(1930)年に廃止されるまで続き、翌年、三池刑務所が閉鎖されました。
終わり。 ありがとうございました。
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