海津の歴史(縄文・弥生・石器時代) 海津郷土史より
海津から飯江川を上流に遡って約1000m行くと広く続いた台地が開けている。長者原と言って今から1100年ほど前、
牡丹長者と言う豪族が、飯江山の山上に
舞鶴城を築いて、この辺一帯を支配し権勢をほしいままにしていたと云う。
ここは約2千年前から人が住み、稲、栗、稗(ひえ)などを作りだすことに成功している。また一方、住民は海津方面の海岸から魚や貝類を漁り、飯尾や飯田の山地で獣や鳥類を採集して、なるべく加工の必要のない食べ物を生活に結びつけたものである。
この頃は鉄器や銅器がなく、石器を使って、大木を倒し、石の鏃(やじり)を使って動物を殺し、漁業の舟は(石器でえぐった大木の上に火を焚いて焼けた部分を石の先でえぐり、木の穴洞を作って丸木舟を作る法)丸木舟を使っていた。
海岸線に沿っている海津地方にこの原始的な舟が現れれて、盛んに漁業が行われた処として千度林(船頭林)や岩松と言った地名が残っているのも非常に興味深い。
又、土の美術品は縄目の土器(縄文式土器)で、水貯、煮焚炊、塩漬など色々用いた様である。
昭和52年7月、飯江川の川底浚渫中に発見されたて掘り上げされた壷(完全な形のまま)は弥生式土器で、弥生後期のもの、1700年前の生活用品である(海津北の大城氏所蔵)。
又、海津古川の大木氏(故人)宅の前方の畑から弥生式土器片がたくさん出土している。
古川の観音堂裏から、古墳時代の須恵器の破片が採集された。
古川早鷹宮の鎮座されている辺も、高い土地であるので、古墳時代の土器が発見される可能性がある。
田尻、飯尾、野町などの山腹から、横穴住居の跡が発見されて太古の原始住民の生活が想像される。
そうした地区にある豪族の墓からは、曲玉、石斧、鏃(やじり)、壷などが続々と出土して、考古学研究の資料となっている。
海津向田の人々が、最近、飯江川の大改修が行われた際、貝殻の化石を発見しているし、難破したであろうと思われる丸木舟の残骸らしい木片を拾っている。
伝説によれば、人皇第38代天智天皇が九州の熊襲(くまそ)を平定して、大和中央政権の基礎を固めんと、はるばる筑紫国に下り有明海の海を渡って小佐島(現みやま市瀬高町太神の長島地区)に上陸された。
天皇は三木(今の三池)の国より船に乗り、江の崎(現みやま市高田町江の浦?別の説は柳川市大和町六合の江崎地区)を経て、飯江川と大根川の合流地点(釣殿と云う地名が長島地区に遺っている)に着いて、小佐島に玉歩を印せられたのである。
当時、海津は海岸続きであったし、近くの古島、長島(瀬高町)、鷹尾島(大和町)、浜田沖田(瀬高町)などの地名がある。
天皇が今の長島釣天宮鎮座の地点に、上陸されると長島の島民は心より、この行幸を喜んで、祝賀を披瀝し、島内に取れた野菜、殻類、魚貝などを献上して、御旅のつれづれを慰め申した。その献上の魚の中に腹の赤い魚があったので天皇は「これは、いかなる名の魚であるか」との御下問があった。
島民の代表者はが、「これは、あかはらと申す魚でございます」と奉答すると、天皇はいたく感激されて、この美味なる魚は朕をして旅の疲れを忘れさせた。都に還りたる後も永く記録にとどめ、又小佐島の地に幣帛を授与するであろうと、誓約されたのである。
天皇がしばらくの御駐れんの問いに、釣りを楽しんで過ごされたるを記念して宮を造り天皇を奉祀して、釣天宮と称し奉り、天皇のために幟を立て鉾を立てて警固した個所に「御幟の森、御鉾の森」(長島地区)と云うのが遺っている。
高田行宮址を考える(前編) 昔の郷土(地図)・御幟の森・御鉾の森にリンクできます。また、釣天宮にリンクできます。
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