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海津の歴史(源平合戦時代)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(源平合戦時代)   海津郷土史より。

海津の歴史の上に、源平の合戦が生々しくきざみつけられているのは、茂出の今、極応寺のある辺一帯である。寿永年間、平家は壇ノ浦において源氏と花々しく戦い、ついに戦利あらずして壊滅的打撃を受け、かしこくも安徳天皇は二位の尼に抱かれて海底に没し給い、名ある高位高官の将士たちは、ほとんど戦死してしまった。しかし、平家残党の中に、あるいは四国に、あるいは九州に逃れ、山中に身をひそめ、あるいは海浜で漁夫と変じて、身の安全を計った。

筑後路に入った平家の一族は、水の駅貝の浦(海津の旧名)に来たり、戦いの疲れを癒し、ここに先陣を立て直しを計った。激しい戦いに身も心もともにさいなまれて憔悴の極に達した公たちは、海辺の波の音を耳にして過ぎし日の修羅の巷を夢に見て、ここにしばしの休息をした。そして病におかされ、あるいは深手の傷が因となって一命を落とし、この地に葬られた人々もかなりの数にのぼった。その人々の塚が今、点々と残って、在りし日の事実を物語っている。

数十日の休息にて、精気を取り戻した平家の武士達は、飯江川に沿って上流の小萩、湯摺の附近、要川の地にて源氏の兵の追撃を待ったのである。ここを待居川と言う。源氏の兵は一騎当千の士にて勝ちに乗りて、土煙を上げて、平家勢を攻め立てれば、ここに見るも無惨なや、流れはたちまちに朱に染まり、屍は累々と積り、平家の将兵のほとんどは戦死して、その影を見ざる様になり、源氏は勝どきを挙げて引き上げて行った。しかるに、僅かに生き残りの平家の将士の中、数名は肥後五ケ荘の山中に逃れ、また金甲山の麓の五位軒谷に行き身を潜め、あるいは平(でーら)と言う部落へ行き、姿を隠し、また有明海のほとり沖端で漁師に変じた者も十数名を数えた。これを六騎と言った。

そして、その他の残党の人々は、再び海津の茂出の土地を踏み、ここに薬師如来堂を建立し、戦いの傷を神仏に祈って慰やしたのである。すなわち、ここに当時の野戦病院が設けられ、数十隻の船は常に脱出せんとする人々のために近くの海岸に繋がれていた。

要川の近く中原の一漠布に身を投じて、死亡した7人の女性の霊は今、中原の山中、漠布近くに七霊神社として奉祀され、村民の尊崇一入厚きものがある。7人の中、1人は竹飯の堰に、1人は海津、下井手の附近で拾い上げられ、その霊を海津北の阿蘇神社横に一堂宇を設けて、奉祀した。村民はこれを厚く敬って、年々の祭を絶やしたことはない。茂出地区、佐戸八蔵氏の先祖は敬神の念、厚くして、この七霊神社に、神田として、海津の前田に8畝17歩を寄進している。茂出地区と源平戦との密接な関係がここにも物語られている。

飯江川(9・みやま市高田町の竹飯橋から海津橋)    ここにも平家伝説と海津郷土史があがっています。







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by kusennjyu | 2013-01-20 04:53 | みやま市の歴史 |Topに戻る