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千寿の楽しい歴史
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海津の歴史(南北朝の動乱期)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(南北朝の動乱期)   海津郷土史より。

菊池武敏が多々良浜の戦いに敗れ菊池へ退く

第96代後醍醐天皇は政権の武家の手にあるを嘆き給い、いかにしても、これを王朝の手に取り戻さんと、相計り、皇子の護良親王を始めとし楠木正成、名和長年、北畠親房顕家父子、新田義貞などの勤皇の士と共に、元弘3(1333)年5月、北条高時執権の鎌倉幕府を遂に滅亡させて、王政復古の大業はここに成就した。

しかるに新政府は論功行賞の不当、足利尊氏の野望などのため、行政は意のごとく進まず再び大乱となり、南朝、北朝の分裂となった。尊氏が九州の戦いに敗退して九州に走るや、九州の豪族の少弐、大友、千葉などの諸将は尊氏に加担し、肥後の菊池一族と阿蘇大宮司の阿蘇氏とは後醍醐天皇の南朝方について、筑前多々良浜に激戦を交えたのである。

この南朝方についた阿蘇惟時の子惟直、惟澄は海津阿蘇大明神とは深い因縁によって結ばれている。肥後の菊池で、留守を守っていた弟の武敏は、尊氏が九州に来るとの知らせを受けて、阿蘇惟直と一緒に、尊氏方についた少弐氏を有智山城(太宰府の後方)に攻め滅ぼして、勢いを増して、博多へ進み、多々良浜に陣を取って尊氏の軍と戦った。

尊氏の軍は急いで、陣の越と言う小高い丘を利用して陣を張り、武敏の軍を防いだ。元気な武敏は、尊氏の軍を滅ぼして国の平和を守ろうと攻めたてたが、北風が強くなり、砂を巻き上げ、菊池阿蘇の軍は目を開くことができず、進むこともできない。それに高い丘にいる尊氏の軍から盛んに矢を射掛けられて、傷つく者が数知れず出た。味方のこの苦戦に、武敏は自ら先頭に立って、激しく戦い、敵を数多く倒した。


それに、肥前の千葉氏の軍が、尊氏の軍に加わったとの知らせを聞き、武敏は「何たる卑怯の振る舞いぞ」と怒り、獅子奮迅の勢いで敵陣に切り込んだ。

しかし、この肥前軍の援助に力を得た、尊氏の軍は一層強く攻め立てて来る。それに横から肥前軍に攻め掛けられた武敏の軍は、ついに破れて、退くほかなくなった。尊氏の軍は益々激しく攻め掛けて来る。

ついに尊氏の軍に、押されて武敏も菊池に退く外に道はなかった。そして18外城と自然を利用して防いだが、尊氏の軍が菊池の里に入り、農民の田畑を荒らすことを恐れて、山中に身をひそめていた。

阿蘇惟直は多々良原浜の戦いで敗れて、肥前の小城を通る時、土地の豪族、千葉氏の襲撃を受けて、深傷を負い、さっそく、これまでと、天山(1946m)の麓で自刃した。

九州古戦場を巡る

阿蘇惟澄の戦い

この時、惟直は弟の惟澄に「お前は死んではならぬ。いかに重傷を受けるとも、一命を保って脱出せよ。また、惟直死せば遺骸を天山山上に葬れ」と遺言した。

今、小城の天山の頂上に阿蘇惟直の墓が建立され、勇将の在りし日を追想することができる。
   天山記念碑  阿蘇惟直之墓

惟直の父惟時は、見知らぬ村里を、さまよい歩く中に、いやしき田夫に生捕られてしまった。
弟惟澄は、奔って矢部城に帰るや、五條頼元などの援けを受けて矢部の将兵を引き連れて、肥後、筑後の山野に、死闘を展開して、南郷坂を抜いた。

延元2(1337)年には、わずかの50騎の手勢を率いて、肥後国砥用、小池の諸城を攻め落とした。ついで、菊池武重と共に、合志城を攻め、翌3年には、再び少弐頼尚と戦い、仁木義長とも激突した。惟澄とその手勢が切り伏せた敵の数は三千余人と言われている。

この惟澄が腰に帯びていたのが、来国俊作「蛍丸」であった。ところで蛍丸と言う名称であるが、これは神秘の伝説として、後世に伝えられている。

多々良浜の死闘は、史上にも有名なように、初めから南朝勢(菊池氏、阿蘇氏)は死を決していた。阿蘇父子兄弟も、生きて還らぬ覚悟であつた。しかし、惟時、惟直、惟澄と3人とも討ち死にしてしまえば、阿蘇の名家は絶えてしまう。

惟澄が八女(矢部)の大杣に辿り着いたのは、延元3(1338)年の5があつた。激しい戦いの後に来るものは疲労である。彼は名も知らぬ谷川のほとりの草葉でこんこんと、深い眠りに落ちていた。そばに太刀がつば元から切っ先まで、空き間もなく、さながら、ササラの如く欠けていた。死んだように、眠る惟澄が見た夢は、奇妙なものであった。

どこからともなく、無数の蛍が舞って来て、惟澄のそばに投げ出された太刀に寄ってたかって、とまっては強い光を明滅させているではないか。翌朝になって見れば、太刀は元の如く、青白い光を放つ、こぼれの全くない、銘刀にかえっていた。惟澄は遠く阿蘇の国阿蘇の神霊が、蛍となって、太刀を元どおりかえし給うたことに、しなし呆然としていたが、やがて威儀を正して、遥かに南の阿蘇神社の方を伏し拝んで、感涙にむせぶのであった。

海津の阿蘇神社

今、海津の阿蘇神社宮司の江良宅の奥深くに秘蔵されたる銘刀は680年昔の阿蘇惟澄の奮戦の様を物語っている。

惟澄は辿り辿って矢部川を下り、大木の里(瀬高町大広園)に城主の大木貞久を訪ねて今かかる零落の由来を物語れば、貞久いたく同情の色を表し、しばらくこの城内に留りて、休養を取り、体快復のあかつきには、「貴方の郷里、阿蘇の大明神を分霊して、近く宮園城近くの丘陵に祀られよ」と語り、数日後、古川木の下郷(海津)に、端然たる社殿を築きて阿蘇の大神を祀ったのである。

惟澄は神のそばに居を構えて、朝に夕に、奉祀に余念がなかった、この木の下の阿蘇神社の跡も早高宮として、今尚、古川の守り神として鎮座されている。

尚、神事として、海津の里が農業をもって生計を立て、稲を作ることを神徳にすがらんと、御田植の神事を里人に教えたれば、海津の里は一入、農作が盛大となり、また人の心も和合して、家々より豊かなる、かまどの煙が立ち上るようになった。

海津阿蘇神社の御田植え祭





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by kusennjyu | 2013-01-24 12:07 | みやま市の歴史
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