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2013海津の歴史(戦国時代の宮園城と大木城)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(戦国時代の宮園城と大木城)   

海津郷土史より。

海津は古川、北、茂出、海門(みかど)、南、向田、散田の7小部落から成っているが、発生の順序も大体この通りである。そして古川地区は海津の内で土地が最も高く、村全体が潮の干満している潟洲時代にも、今から600年前の室町時代の頃から、かなり文化も開けていたものと思われる。

現在の行政区域から言うと、瀬高町大広園の南大木地区及び宮園地区と高田町海津の古川地区の3地区にまたがって宮園城が構築されたのは、文中元年(南朝)・応安5年(北朝)の1372年で今村大隅が初代の宮園城主である。

南北朝動乱時代から戦国時代にかけて、激しい合戦が繰り返し行われた頃の城、それが要害宮園城です。
筑後国には172の城館があったと言う。城は小さく、館も十分に敵襲に備えられた城と言ってよい。
そのうち、南筑後には山門郡15、三池郡7、上妻郡南領12、下妻郡10、三瀦南部7、計51の城館があったと言う。

ところが田中吉政が、それらの城跡をすべて取り壊し、整地して田畑としたといわれる。それぞれの石垣や礎石の石は、宗茂や吉政によって、すべて柳川城に運び去られたという。

ところが宮園城跡は、600年前の姿を昔ながらに見事に現存している。今は塁濠を残すのみであるが、土塁や、縦横に廻された囲まれた水濠こそは、中世から戦国にかけての平城にとって最も肝要な部分であったのである。宮園城は今も古城跡としての風趣と格調とを備えている。

宮園城の城主の祖今村大隅は、藤原姓宇都宮党後蒲池8代の祖蒲池壱岐守久憲の嫡男、蒲池壱岐守義久の子である。

宮園城の近く北方500mの地点に大木城があった。大木城は遠く鎌倉時代の初期に源頼朝から宇都宮知久が、筑後国山門郡を賜わり同郡大木村に在城して、大木主計頭と号したことに創る。

しかし南北朝動乱のため、大木氏が肥後に移りて久しく廃城となっていた。蒲池久憲の子宇都宮資網がわが嫡男大木政長を、旧大木城に封じ、廃城となっていたものを、快復させたと伝えられている。

今村大隅と大木政長とは従兄弟同志である。

そして、宮園城と大木城は隣り同士に築城している。その城の完成も殆んど同じであったのである。
文中2(1372)年から応永元(1394)年の間の頃と推定される。

矢野一貞著 筑後将士軍談 中卷162ページに次の様に出ている。

今村大隅は蒲池義久に出ず。初めて今村氏を号す。宮園に城を構えて之に居る。山門郡大江、広安、宮園、三村のうち18町其の他近傍36町を領す。大隅自力を以て切り取る所は、上妻郡山崎、吉田に16町、その他4町、下妻郡前津12町、別に室岡の内等に有り。

筑後将士軍談 中卷47ページより引用

三瀦郡蒲池芭城の起こりを尋ねるに、天慶の初め伊予国純友が一族築きたると言う。その後承久の頃、松浦党の枝葉源三円と言う者、養子の聟(むこ)となり、これ前蒲池氏の祖なり。それより代々相続し・・・・源三円より12代蒲池出羽守の時、嗣子なく1人娘あり、成長に従い家の耐えんことを恐れ、神仏に祈誓して、再興の志いと切なるものあり。

ここに宇都宮参河三郡久憲と言う人あり。祖父壱岐守貞久は同刊部丞貞那と共に宮方に候いて、過ぎにし応安4(1371)年征西将軍に供奉して肥後国八代に在りしが、その後菊池郡に住し、筑前筑後及び諸々の合戦に抜軍の功をあらわせり。

貞久の子懐久、その子久憲に至りて、宮方衰微し、さまよいあるきしが不思議の夢によって、高良大社に参籠す。この時出羽守の娘も、霊夢の事ありて、高良玉垂宮に参拝せしが、神前に於いて相見え・・・・よりて縁を結びぬ。時に応永年中也(1394年)後小松天皇の御宇なり。

蒲池参河守久憲と号し、再び家を興しけり。その後蒲池氏8代の祖なり。宇都宮朝網の後胤にして藤原姓なり。

宇都宮再改め蒲池久憲より5代の孫、筑後守治久の二男和泉守親広を大友親治の下知によりて、上妻郡の押えの為とて、山下に移し、その嫡男志摩守鑑広の時、山下の山中に新城を築き・・・・上蒲地氏と号す。

瀬高の南部地区の海津附近は潮の干満の差の激しい有明海特有の潟洲の続く海中であったと思われる。今の古島、長島、岩津、宇津、潟海津等の部落名からしても、この事は察せられる。

大木、宮園の南部及び西部は満潮の際は一面海となり、干潮の際は潟洲の続く湿地帯となり、要害としての役目を果たしたものであろう。今日でもこの地方は豪雨があると腰を没する河川水の氾濫で悩むのである。

昔は清水山の大谷の堤、蒲池山の大溜池は平時は水田の潅漑用水として利用価値が甚大であり、戦時には、水門を閉めて、堤の水を切って落せば、いわゆる浮城となって、防戦の用に当てたものと思われる。従って両堤の起源も古く中世期に遡るのである。

応永3(1396)年、大友親世は肥後国詫間原に菊池武朝を攻め、これを敗った。この時、蒲池壱岐守久憲、その嫡男壱岐守義久父子は菊池氏を助けて、良成親王の為に戦ったのであるが、武朝は八代に敗走したので、蒲池父子は大友氏と和を結び、これから蒲池氏は大友氏24騎の旗頭として、その勢威を長く振うのである(天正16年、豊臣秀吉の九州新領地配当により召し上げの時まで)。

天正9(1581)年、柳川城主蒲池鎮連が佐賀市与賀神社境内で、竜造寺隆信の兵に襲われて謀殺された時、大木城主大木兵部少将統光は弟大木資水が「肥前勢を抑えてこころよく一戦し、城を枕に討死せん」
と主張したのに対して、無益の事として聞かず。

鎮連公亡き後は、「又誰の為にこの城を守らんや。郷等皆これより去れ。予亦この城を捨てん」と言って城を開いて佐賀へ行き、人を鍋島直茂につかわし「主人蒲池鎮連が追腹仕るべき為、当地にまかり越したり」と言わしめた。

直茂その義烈に感じて、隆信に知らせ、隆信もその忠烈を厚くかい、追腹を止めさせたので、統光はついに機を失して、切腹を中止して、後鍋島直茂に仕えて忠勤を励んだ。大木城はここに滅亡したのである。

大木統光の弟資水は、大木城廃止後、田尻氏に仕え、田尻氏が滅亡すると、彼は浪人したが、その子幸永は元和年間になって、立花藩に仕え、大木村で130石を給されたと言う。
この時、姓を大城に改め、子孫今も大木に住す(柳川藩誌下巻265頁参照)。

長福寺跡の小祠に記して曰く

大木城は鎌倉幕府以来大木の居城地にして大木兵部少輔統光に至り、天正九年三月、蒲池鎮連、竜造寺隆信が為に亡ぼされし時、開城したり、城内一〇〇間四方、二重に堀をめぐらし、世に堅城と称せり。長福寺は大木城内にあり。大木氏の菩提寺にして臨済宗の巨刹なりしが、天正年間竜造寺氏の為焼かれ、当時の墓地に小堂を建立し、弥陀、釈迦、観音の三体並びに宗僧の像を安置して後世に残したるものなり。本堂敷地は即ち墓地にして、堂の西方は寺跡なり。東南は即ち城跡なり。

   時維大正9年3月本堂改築にあたり、旧記を参照してこれを記す。   田崎強三記。






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by kusennjyu | 2013-01-25 11:00 | みやま市の歴史 |Topに戻る