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海津の歴史(戦国時代の山下城と海津)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(戦国時代の山下城と海津)    海津郷土史より

天文元(1532)年、上蒲池は鑑広が城主であるが、彼は山下の堅固の地に立てこもり、肥前竜造寺隆信の軍が攻めた際も巧みに地形を利用し、また崖に縄を張り巡らし、谷川に杭を立て、城兵の勇武果敢と相まってついに、これを抜くことは出来なかった。いわゆる、難攻不落と天下にうたわれ、隆信をして攻撃を断念せしめたるは、有名なる事実である。

鑑広は、かつて京都禁裡守護のため上洛したる時、幸若舞の名手大澤幸次なる者を、連れ帰り、溝口に居を構えさせ、城内の将士に、これを修練せしめて精神の練磨をはかった。幸若舞は小田村より、大江の地に伝わり、現在も尚、国内に唯一ケ所残されて伝えられたのである。

鑑広の子、鎮運は下蒲池(鎮連)氏が肥前の地にて騙まし討ちに会いついに滅びたる後も、弔い合戦をなし、少しも屈せず、山下城を守ったが天正年間、豊臣秀吉が天下を統一して、九州の諸城を廃し、山下城を剥がれたる後は、海津200町歩を与えられて海津館によって、海津地方の農民のため、治水道路を整えて、おおいに治績を上げたのである。

文禄の役が起こるや、鎮運は直ちに、海津館を立ち出で、肥前名護屋崎より軍船にて朝鮮に渡り、いたる所の戦闘に手柄を立て、太閤の感状を受けること数十回である。

阿弥陀堂と永禄年間における海津の治勢

a0137997_848447.jpg海津北の阿蘇神社のある南側を蔵屋敷と言う地名が残っている。この一隅に次の堂と碑がある。

 一  阿弥陀堂  一間四方   本尊は阿弥陀如来一体
 二  碑  三基   面積 一畝四歩

田尻丹後守鑑種は先祖大蔵春実より出づるが故に大蔵姓を名乗ったもので、大蔵とは太宰府都督府の重要なる役職である。田尻氏は今の高田町田尻に、田尻城を築き近効近在に勢力を有して豊後の大友宗麟の輩下として、筑後南方の一角に居住していたのである。

田尻氏は代々敬神の念厚く、始祖大蔵春実が天慶承平の両乱に伊勢皇大神宮に参拝して、武運のめでたからんことを祈り、天慶の乱(938年)後には、三池郡高田村田尻郷に森山神社を勧請し、代々田尻氏の氏神として尊崇した。

鑑種の父親種は永禄年間に田尻城より鷹尾城に移った。これは田尻城が山間にて飲料水に不足し、なお交通に不便を感じ、四方の形勢を考慮した上で、こうしたものと思われる。親種は大永5(1525)年、垂水城攻めに大友氏について軍功を挙げる。
元亀元(1570)年に6月25日死。

鑑種は鷹尾城主となって、初めは大友氏の旗頭となって忠勤を尽くしたが、天正12(1584)年になって竜造寺隆信方となって、肥前東松浦郡山代村(現伊万里市)に移った。ここに親種寺があり、田尻氏の菩提寺である。

鑑種が支配した領地は次の個所である。

棚町、塩原、井手ノ上、長島、海津、新ケ江、楠田、原、岩津、古賀、田尻、浦、飯尾、檪崎、三ツ峯、佐野、原町、北関、亀尻、真弓、立山、竹井、草場、大塚、長田、蒲船津、中尾、飯江、農志(濃施)、吉里

大和町大和中学校の北に間垣橋がある。この流れの東南が田尻領、北東が蒲池領である。

鑑種は親種の子で天文7(1538)年に生まれ、天文16年(10歳の時)には数多くの老臣勇士に護られて、氏神である、森山神社を初めとして、附近の神々に参拝している(天文十六年丁未十月二十六日就参上日記之事)。

田尻鑑種  十五歳元服の時、再び参拝している。(天文二十一年壬子正月十五日就御元服参上日記事)。
供養の人々は46名で、元服の儀式がいかに盛大であったかを想像することができる。

田尻鑑種はその母、丁光妃が7歳の時、逝去したので、亡き母を慕うこと誠に切なるものがあった。鑑種は海津が己の領地であり、今の阿蘇神社境内となっている北1642番地1反8畝20歩に別邸を設けて、ここに
阿弥陀堂を建立し、信仰心厚き母の憩いの地としていた。丁度、永禄12(1569)年乙巳初秋十三日は、母公亡くなりしより25年の命日に相当したので、広き祭壇を設けて、母公丁光妃の霊牌を安置し、近在の僧侶40名を招聘して華厳経三千巻を看読して、霊を慰めた。領内の武士、百姓、町人、多数参列してこの盛典に、田尻城主の威光を身に深く感じたのである。

田尻家は鷹尾城より肥前に移り、後豊太閤の文禄の役に従軍して朝鮮の地において亡くなり、時代は変わって、海津が立花藩の統治を受け、阿蘇神社を木の下の郷より、田尻家別邸たりし土地を神社の境内として、ここに神霊を奉祀することになったので、阿弥陀堂は南西隅の1畝歩の地に移し、大きな供養碑も上部の中心碑のみを取り地中に建て、名のみの供養碑となったのである。
昔権勢をふるって、この地域に君臨したであろう、勇将の面影を偲ぶことも、また興味は一入深いものがある。

田尻氏の足跡を訪ねて2     田尻氏供養板碑があります。

丹後守道路

田尻城の支配を受けて海津は太古よりの狩路の駅として交通の要衝であったものが、この頃一層重要性を増し、田尻城より北方に進めば向田地区、曾里町~向畑~飯江川橋(現在の橋梁の50m上流)~川の端~道手~江越橋(こkは塁濠)~江越~一ツ橋~七庄司~水落~耳切橋(越せば瀬高町宮園)約1500mと続いている。

この沿線には屋形町(館)・道手・江越(大蔵氏の屋敷)・七庄司・耳切橋・馬すて場(馬の墓地)等の史跡が地名として残っている。
またこの沿線に肥前竹の」林が点々と見えるが、よく調査してみると、これは昔の住居の跡である。







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by kusennjyu | 2013-01-26 08:25 | みやま市の歴史 |Topに戻る