岩田校区の神社(田尻・岩津) 1月29日撮影
田尻 森山神社 祭神は、春日大神、住吉大神、建連魂神である。
社記によれば、天慶2(939)年播磨国の大蔵春実は、大将軍藤原中文に従って藤原純友討伐に功あり、筑前原田に3700町を賜わり、姓を原田に変えた。尚出征途中近江国森山宿に於いて霊夢に感じたという。
寿永元(1182)年、原田種成に3人の子があり、三男種実は三池の荘田尻に領地をもらい田尻城を田尻山に築いた。氏の神として祭り、姓を田尻と称した。
田尻氏の氏神様のお祭りで、明治時代までは毎年、伊万里市からもお参りに来ておられたそうです。
田尻氏は最後は鍋島氏の家来になり伊万里市に領地をもらい、現在の松浦一酒造の当主は田尻氏です。
岩津 九躰神社
祭神は斯礼賀志命(シレカシノミコト)・朝日豊盛命(アサヒトヨサカノミコト)・暮日豊盛命(ユウヒトヨサカノミコト)・神渕志命(カミブチシノミコト)・ タン上命(タンカミノミコト)・神坂本命(カムサカモトノミコト)・神安楽応宝秘命(カムアラキオホヒノミコト)・神安子奇命(カムアシキノミコト)・神娜男美命(カムナオミノミコト)の九神。
由緒(神社の歴史)(柳川藩資料集)
神功皇后攝政69年(西暦110)武内宿弥を筑紫につかわして、村人たちの生活状況を観察させられた。宿弥は海路で目標地たる黒崎に着き、休息の後、黒崎半島北岸沿いに東方に進み、鷺山・魚繋・市場・干渡を過ぎ神崎に上陸した。そこに五大皇子神社がある。
神崎から山路を北進し、宮坂を下り休息された所に十王堂がある。なお北に進み坂を下りると、内海が見える海岸の子高い山上に休息する。そこに九躰神社がある。
(高田町誌)
按ずるに、三毛郡日奉郷の中心地ともいうべき浪打ち寄せる岩津の山に「除日祀之法、省送終之礼」の古事より「朝夕之祭祖之事」にて日奉郷は大略察知される。祭神の中に二柱の命、即ち朝日豊盛命、暮日豊盛命がある。古代における日奉連(ひまつりのむらじ)の一族が氏の神として祭祀したものであろう。日奉連は後年数族に別れ現在に至っている。
当社は、原始宗教の斉庭(いっきにわ)に霊石を鎮め奉り敬意の念を以って崇拝したと思われる社地である。
石火灯 天保六乙未(きのとひつじ)年(1835)
岩津高木 天神社
高木の天神さんは高皇産霊神を祭祀してある。相殿はなく一柱であり、天神である。所在地は旧岩津村字高木である。殿堂は4坪半と神社帳に記載してある。
この近郷には清泉が湧出している。古老の言によれば明治以後次第に水は渇れたが昔の泉の蹟は残っている。しかし2ケ所の泉は今も付近の人の飲料水として滾々(こんこん)と湧出している。古代において旅人が泉から泉へと泉伝いに、山麓に沿って往来したことが偲ばれる。泉を中心に部落が発生した史実も証明される。
山の頂上は眺望が特に絶景で、西に白縫の海を隔てて多良の連峯を眺め、足下には西北ともに自然または人工開拓の筑後平野を俯瞰し東北方には清水、巨泉(こそぢ)の連峰が望まれる。
この山頂は前方後円墳にして上楠田の古墳と相似た点がある。高木山のは箱式石棺である。大中小の3棺の内、大棺は慶応年間に里人の開墾中に発掘した。中棺は不明である。小棺は確か昭和24年8月ごろ、開墾中に発掘されたと記憶する。
三代実録に高木神社の記載がある。
延喜式筑後神名帳に「元慶(がんきょう)2年(平安時代878年)授筑後国高樹神従五位上」と古来より高貴な御方を祭祀する神社として崇敬せられた。
当社は高木の前方後円墳の北側中腹にあり、同古墳と関係があるものと思われる。内には三御神体が祭られてあるが、左側は神皇産霊神(かみむすびのかみ)、正面は菅原道真、右側は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)ではないかといわれている。
延喜式筑後神名帳には、筑後で十三の神社名が記録されているそうである。高木の天神社がいかに古い時代に建てられたか、しかも高貴な祭神であるということがわかる。
岩津田代 天満神社 祭神は菅原道真。
岩津上古賀 早高神社 祭神は神皇産霊神(かみむすびのかみ)。
続きます。
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