渡瀬町の講演会(昔の高田町) 平成25年5月22日予定 まいピア高田にて。
高田町の西半分の地図をかけ軸のように掛けられるように準備する。
地図は昨年の文化祭で高田町の遺跡・文化財を掲示したもので、半分に折っています。
三池街道(緑色)、国道208号線と209号線(高田町で合流・黄色)と田中吉政の慶長本土居(青色)を記入。
⑬濃施三軒屋の道標(有形民俗文化財)
三軒屋から道が分かれて、橋を渡って東へ行く「
せたか道」(岩津、宇津、)へと進むと、左へ進む「やながわ道」(江浦、鷹尾」へ通じる分岐点でした。
凝灰岩の角柱で、高さ90cm、幅22cmの陰刻字が残っています。
寛永年間(1741-1743年)
の海岸地図
中央の蛇行した川が矢部川です。高田町はその下の地域になります。
地図の海岸線(北新開村・南新開村)が慶長本土居と同じです。
講演 『明治38年の止宿人名簿から時代を眺める』
1・渡瀬町の由来
鎌倉、室町時代(~1500年頃)までは隈川、楠田川の河口であり、倉永の山下市場では、当時、島原、天草方面から産物を満載した舟が、隈川を上って運んで来て市場が開かれていた。西鉄渡瀬駅の南西部の麓の集落に地名が残っている。(市場)
渡瀬は後に小高い山があり、有明海を隔てて多良岳が眺められ、満潮はすぐ足元まで寄せてきた。山の根にへばりつくようにして人家が点々と並んでいた。
倉永へ行くには、干潮時を利用して隈川の浅瀬を渡ったので、後にこの辺りを『渡瀬』と呼ぶようになったと言われている。
今日でも、倉永と渡瀬を結ぶ橋名は『干渡橋』と名付けられている。陸地化してしまい3・4百年前までは海であったと想像もつかず、今では5km余り西に行かないと海岸に出ない程に干拓が進んでいる。
2・江戸時代
「慶長本土居」第二期工事としてみやま市渡里から同渡瀬までの7kmの築堤工事が実施されました。工事は慶長7(1602)年に始まり慶長12(1607)年に完成する。(半田隆夫著)
元禄の初め頃は、神崎川、隈川の上流の三ケ坊あたりまでは入海で、渡瀬の南端には六・七反の帆船出入りの便がありました。
元禄6(1709)年には黒崎開新田の汐留があり、柳川藩の開拓事業により新開村が発達する。次第に海運の利を失うことになってしまった。
立花藩13の在町(ざいまち)
宿場町としての在町 山門郡上庄町・下庄町・原町・三瀦郡小保町・上妻郡山下町・
三池郡渡瀬町・三池町。
宿場町以外の在町 山門郡本郷町・野町・本吉町・中島町・上妻郡兼松町・三池郡江浦町。
※商品経済の町 瀬高町、三池町、江浦町、原町、野町。この五ケ町を商人、職人の町とした。
柳川宿(駅)と三池宿(駅)との里程は、四里十二町六間(17km)。
三池街道(高田町渡瀬北町)
次回に続きます。
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