みやま歴史講座「矢部川の舟運と廻船」 以下は講師の半田隆夫氏資料より。
期日 平成25年8月22日 場所 山川市民センター
1・川の呼称
矢部川 明治5年5月8日に三潴県布達される。
元柳米之際、境川と唱ヘ来候川、自今矢部川と相唱へ可申候事 壬申五月
これは瀬高町郷土史部の龍さんが見つけられたものです。(半田氏の説明)
江戸時代には、矢部川の上、中流は久留米・柳川両藩が入り混じっていましたので
「御境川(おさかいがわ)」と呼ばれ、下流は
「瀬高川」・「中島川」と呼ばれていました。
川は、それぞれの地域の人びとに固有な名で呼ばれ、親しまれていたのです。川魚の恵みを与える川も、時には「あばれ川」として恐れられました。人々は、川に生き、川とともに生きてきました。
矢部川の鮎漁は、4月から9月にかけて行われ、上、中流は「建川(たてがわ)」と呼ばれ鮎漁の区域となり、特に藩主に上納する鮎漁の区域は
「御建川」と呼ばれました。
矢部川の河口域を流れる「中島川」は、洪水によって大河になったときは、上、中流から鮎も流れてきますが、普段は有明海から潮が瀬高近くまで遡るので、ハズクチやボラ・スズキ、そしてウナギ・フナなどの海の魚や淡水魚を採穫していました。
『筑後地鑑』には、生葉郡吉井の鮎飼漁が散見されますが、この鮎漁は、「夜川」と呼ばれるもので、今日、長良川や三隅川で一般的に行われる鵜舟による夜遣(よづか)いでした。

しかし、矢部川の鵜飼漁は今日の鵜飼の方法とは違い、大網を川底に敷き、下流を締め切り、上流から鵜を使って鮎を追い、鮎が網に集まったことろで網を引き上げるという漁法でした。つまり、漁網を併用した逐鵜(おいう)による昼遣(ひるづか)いでした。
矢部川の瀬高から黒木にかけて「鵜じ師」(鵜匠)が数百人あり、一網で数百匹、日中数回これを繰り返すと数千匹の鮎を採穫したと言います。
民間の鮎漁を禁じ、運上鮎の鵜飼漁を行う漁区を
「寄川(よせがわ)」と言い、特に藩主が見物する鵜飼漁区は
「御寄川」(久留米藩は矢原川原、柳川藩は本郷川原)と呼ばれました。久留米と柳川の藩主も納涼を兼ねた「川狩り」を楽しんでいたのです。
上の写真は図説立花家記より屏風の
「本郷風景図」で鵜飼漁をしている人々が書き込まれています。
「新柳川明証図会」より転記。
明治4年の廃藩置県によって久留米・柳河両藩が廃止されると、矢部川は「御境川」ではなくなります。
矢部川の堰と回水路は、旧久留米藩については上妻郡・下妻郡(明治28年に統合して八女郡)が、旧柳河藩については山門郡が管轄し、郡制が廃止されると、前者は福島町外十二ケ町村土木組合(現在の花宗用水組合)が、後者は城内村外九ケ村土木組合(現在の柳川市外三ケ町土木組合)が管轄しました。
また、矢部川から分流する花宗川と太田川は三潴郡(旧久留米藩、郡制廃止後は大川町外十ケ町村土木組合、現在の花宗太田土木組合)が管轄しました。
明治18年以後、八女・山門・三潴三郡による矢部川の水利をめぐる対立は続きますが、昭和38年に治水と利水、発電を兼ねた多目的ダムとして日向神ダムが建設され、農業用水が安定して供給されるようになり解決しました。
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