第10回久留米ん町探検隊の初秋の北野路(ようきたのぉ!)をウォーク1回目
参加者 30名
日・時 10月5日(土) 午前9時受付開始 9時半出発。
・集合場所 西鉄甘木線大城駅(北側のストア駐車場集合)

コース
大城駅~益影の井~赤司神社~良積石~コスモス街道~北野天満神社にて昼食後解散
~甘木線北野駅、 余裕のある方 (門前町散策道や酒造場・慧華の湯も在ります)
原始時代の「大城村」
筑後川沿岸の沖積層に位置する大城村はその構成村落である塚島・千代島・中島の村名からもうかヾえるように筑後川と深い関係をもち、その発生は筑後川沿岸の開発の歴史と歩みを共にしたものと推定されます。
「筑後郷土史」(伊奈健次著)には、約2000年昔の筑後一円について次のように述べてあります。
「当時三井郡平野は多く水を湛え、所々に沼沢地があり葦茂り点々としてその間に島浮かびその島々には原始諸部族が住んでいた。
筑後川の河口は水縄山下に開き年々定期的な氾濫によって流される沃土は漸次三井平野を形成しつつあった。この深き入江は三潴郡堺に於て狭くなっていたらしい。即ち京隈が東より千栗・曽根崎が西及び北より突出していたらしい。」
写真の「7世紀後半ころの北部九州」の地図は高木隊長説明用の写真をお借りしました。
地図中の「筑中」の下の方の赤い鳥居は「赤司八幡宮」の位置です。
古代の大城村
記録に残されるようになった時代に至っての史料は大体客観性をもっていますが、
大化改新に筑紫国を筑前筑後に二分し、「筑後国上管 御原・生葉・竹野・山本・御井・三潴・上妻・下妻・山門・三毛」(延喜式民部條)の郡名が見えます。
約1000年昔に編された倭名抄(ワ ミョウショウ)には、「筑後国 御井郡 節原(フシハラ)・伴太(トモタ)・殖木(フエキ)・弓削(ユゲ)・神代(クマシロ)・加駄(カダ)・大城(オオキ)・山家(ヤマカ)」の郡内九郷村をあげています。
倭名抄時代の郷村は大半現存していませんが、大城・加駄ともに1000年の歴史を経て今日に至っています。
大城
「大日本地名辞書」には「大城は今大城村に存す。伴太(トモタ)郷の西にして筑後川の北畔なり。
大城は俗に『大木』に作る。」とありますが、村名「大城」については山本村観興寺縁起にゆかりがあると伝えています。
中世に至って大木氏が大城に據ったことが記録にありますから大城とも大木とも書いたのでしょう。
かかる古い歴史をもっているからこそ、
明治22年の市町村制実施に際し、新しい行政村名として「
大城」がとられたのでしょう。
益影の井

益影の井 大城小学校の運動場の東南端にあります。
高良山御手洗の清水と朝妻の清水と合わせて御井(三井)郡の名前の由来となっています。
神功皇后が産湯の霊水として地域に愛されています。
塚島古墳


塚島古墳
塚島天満宮境内にある古墳で、6世紀後半のものと考えられいます。筑後川の氾濫により壊れb、現在は巨石が重なり合っている状態で残っているのみです。
当時沼沢地帯の島であったであろう塚島には塚即ち古墳の所在地として貴重な遺跡が残っています。
豊比咩神社の祭神豊姫命の霊廟と言伝えているこの古墳は、円墳ですが年々の洪水のために崩壊して原形をとどめず約一畝にわたる地域に壘積された巨岩群です。
筑後川沿岸の低地帯に古墳が残っているのは稀なことですが、その稀な古墳の一つが塚島古墳です。しかもこの古墳一帯には合甕棺の埋没が多く、古墳時代よりもっとさかのぼって古い弥生式時代(約2000~2500年昔)にこの一帯に原始部族が居住していたことがうかがわれます。
古墳の規模からみて、この一帯に相当の勢力をもつ部族であったのでしょう。あるいは耳納山麓地帯と北方花立山麓地帯の中間にあってこの広漠たる沼沢地帯を掌握した有力な部族の據点として、当時大城村一帯が重要な位置にあったかとも想像されます。
法円寺前

「そばの花」の横を通る

田園風景の中を通る

次回は「赤司八幡宮」から紹介します。
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