史跡~鴻臚館跡探訪 平成25年11月15日 三池史談会にて
詳しく説明してもらいました。
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古代官道の推定図

出土した木簡

陶磁の道

遣唐使の道

古代のトイレ

鴻臚館とは 展示館資料より
鴻臚館は古代(飛鳥、奈良、平安時代)の迎賓館に相当する施設で、中国・唐や朝鮮・新羅の外交使節や商人をもてなすとともに、日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の送迎にも使用されました。同様の施設は平安京(京都)、難波(大阪)にも設けられましたが、その遺跡が確認されたのは、筑紫の鴻臚館だけです。
筑紫の鴻臚館の役割をもつ施設は、筑紫大郡・小郡・筑紫館(つくしのむろつみ)の名で呼ばれており、平安時代になって中国の外交施設である「鴻臚寺」にならって「鴻臚館」と改称されました。
鴻臚館は7世紀から11世紀前半の約400年間、対外交渉の窓口として重要な役割を果たし、永承2(1047)年の放火事件の記事を最後に史料から姿を消します。
鴻臚館展示館は、遺跡の上に覆屋を建て、発掘された礎石などの建物跡とその復元模様を公開し、発掘から建物復元までの過程を表現しています。館外には建物跡を地表表示しています。
発見から調査まで
江戸時代には、現在の博多区下呉服町付近の官内町にかって鴻臚館があったと考えられていましたが、大正末頃に中山平次郎(九州帝国大学医学部教授)は遣新羅使が筑紫館で詠んだ万葉集の古歌をヒントに古代の瓦や中国陶磁器を福岡城内で採集し、福岡城内説を唱えました。
そして、昭和62(1987)年、平和台野球場外野席の発掘調査で鴻臚館の遺跡が発見され中山説が裏付けられました。
鴻臚館の変遷
鴻臚館は博多湾に突き出した丘陵上に築かれました。大きな谷を南北に挟む尾根を造成して南館と北館のふたつを造り、谷は堀として残しました。
飛鳥時代(7世紀後半)に、まず掘り立柱建物群が造られますが、南館と北館では建物の方向が異なっていました。奈良時代(8世紀前半)になると、堀に高さ4m以上の石垣が築かれ、東に門を持つ塀で囲まれた施設が南北に全く同じ規格で造られます。塀の外には、それぞれ便所が設けられており、」便所跡からは、トイレットペーパー代わりに用いた木片(籌木・ちゅうぎ)が多く出土しました。各地から送られてきた物資に付いていた荷札(木簡)を転用した籌木もあります。その後(8世紀後半)には、展示館内に復元したような礎石を用いた建物に造り替えられました。
国際色豊かな展示品
現在の中国の河北省、浙江省、湖南省などで生産された大量の陶磁器や朝鮮の新羅・高麗期の陶器、さらには西アジアのイスラム系陶器やペルシャ系ガラス器などの出土品は、交易拠点としての鴻臚館の性格を現しており、交易港湾都市福岡(博多)の原点がここにあると実感されます。
次回は博多の寺を紹介します。
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