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2013大詫間島の歴史(佐賀市川副町)・大川歴史講座にて
大詫間島の歴史(佐賀市川副町)・大川歴史講座にて    

平成25年11月30日


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海路端(うじばた)

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海路端(うじばた)  大川歴史講座資料より

①有明海の湾奥部の筑後川の右岸域(佐賀県側)に海路端(うじばた)という地名がある。

②筑後川が有明海に流れ出す河口部の地名であり、海に通じる路の先端(間の意、先端という意味であり、儀式を行うところという意味もある)という意味であるだろう。

③神功皇后は有明海を北上し、大川の榎津に上陸して風浪宮を建て、さらに筑後川を遡上して大善寺に上陸した。香椎の本陣を出発して大宰府・甘木を通り南下した上陸部隊と有明海を北上した神功皇后の部隊は、三潴の大善寺で合流して、筑後の田油津姫を殺し、有明海周辺と筑後一帯の占領を完成するのである。また、有明海の南東部の熊本県側には海路口という地名がある。阿蘇山の西から有明海に流れる白川の河口部の地名であり、南に通じる路の出口という意味であろう。

④海路とは今日、宇治と書くことが多い。この京都の宇治は、九州王朝説から考えると、有明海から移された地名と考えることができる。
 
⑤海路は蛆とも書く、蛆貝蛸(うじのかいたこ)とは聖徳太子の妃の名前である。蛆貝蛸は敏達天皇の第一子である。彼女の弟には竹田皇子(敏達・推古天皇の第二子)がいる。
この海路口の南に榎津の地がある。中国の書に「日出ずる処の天子」と名乗った「タリシホコ(多利思北狐)は、阿蘇山の側にいると書いている。「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭を行う(下略)」この阿蘇山から四に流れる白川の河口が海路口なのである。そして、蛆貝蛸とは「海路の貝蛸」である。

⑥「海路」とは「海の道」とも書くことができる。大川の道海島の名の由来は実は海路からであろう。この大川の地が深い歴史の恩恵に育まれ、大川の未来と日本の未来の将来を考えながら、海外との交流の拡大も視野に入れながらの、志が「明」に込められています。古くは、大陸や韓半島から、そして新しくは、島原半島から、有明海を通って移り住んできた人々が築き上げてきた。

山口家受託(佐賀市川副町大詫間)

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大詫間島の歴史

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搦の言及  世界大百科事典より

【有明海】より

この沿岸の干潟地はきわめて肥沃で,古くから自然陸地化の開墾や日本最古とされる干拓工事が鎌倉時代から行われ,とくに江戸時代以後は大規模となった。

干潟の発達は筑後川河口西岸の川副(かわそえ)地区に最も顕著で,佐賀平野に面する海岸では年平均1mずつ平地がのび,地名には搦(からみ),籠(こもり),開(ひらき)のつくものが多い。沿岸の干拓地は溝渠(こうきよ)網にめぐらされた九州最大の筑紫平野を形成し,米作を中心とする日本の農業の先進地となっている。…

【川副[町]】より

古代~中世は河副荘に属した。古くから干拓が行われ,町の中心犬井道(いぬいどう)付近が戦国時代末期の海岸線で,それ以南は江戸時代以降の干拓地であり,籠状の締切り堤防,搦(からみ)がみられる。

基幹産業は農漁業で,近年は米作のほか,ナス,キュウリなどの施設園芸,イグサの栽培などが進められている。…

【干拓】より

東日本に湖沼干拓が多く,西日本に海面干拓が多い。湖沼干拓地は新田という地名であるが,海面干拓は旧藩領によって異なり,八代海の新地,有明海の牟田(むた),搦(からみ),籠(こもり),瀬戸内海の開作,新開などがあり,大阪湾,伊勢湾では新田という。湖沼干拓は17世紀の治水技術の発達によって,干潟八万石,飯沼,見沼,紫雲寺潟などに2000~3000haの干拓地ができた。

籠・搦・開

遠浅の有明海沿岸は、主として近世以降、干拓が進められて新しい陸地が増えていった。こうした新開の土地は、ふつう新田(関東・北陸その他一般の名称)とか新開、(中国・四国に多い)とかの呼称がつけられるが、この地域ではここに特有な呼称がつけられている。籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)などの名称がこれである。

干拓地は、とくに江戸前期から中期にかけて大量に増加したが、明治以後は~干拓というような地名も現れてくる。搦は柵(しがらみ)のことだが、これは干拓が前面に潮土井(または土井)と称する潮止堤(護岸)を築き、その内側を陸化していくことから来たと思われる。そして、干拓地の名称と同時に、堤防にそって形成された集落の名称ともなる。

小地域的にみれば、この三者の呼称は分布する地域を異にする。ざっとみると、肥前すなわち佐賀県側には籠・搦が分布し、筑後川の東部つまり筑後すなわち福岡県側では開と呼ぶ。しかも、佐賀県側の川副(かわぞえ)付近では、内側つまりやや内陸に籠が、外側つまり海に近いところに搦が多い。

この後、大川の風浪宮まで帰り解散しました。大川市の川島会長と阿曇(風浪宮宮司)さんにかんしゃします。

by kusennjyu | 2013-12-05 05:27 | 歴史学習会
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