佐久間象山の思想と実践に学ぶ2回目 平成25年10月8日に佐久間神社に訪れました。
佐久間象山・長野市の先人に学ぶ(平成23年に生誕200年) 佐久間象山の一生から続きます。
佐久間象山と像山神社(象山先生 生誕200年記念誌より。
高義亭(蟄居された家)
安政元(1854)年11月、佐久間象山は、吉田松陰の下田踏海事件に連座して蟄居を命じられました。その期間は9年間もの長きに及んでいます。
幽囚の身となった象山が妻順子(勝海舟の妹)とともに暮らしたのが、聚遠楼高義亭でした。この家は松代藩重臣・望月主水から借り受けたものです。その当時は、ここより東南へ約1kmの地にありました。明治の大火でも高義亭は燃え残り、現在、長野市文化財に指定されています。
信州の深山の地に遍塞しても、象山の時勢への洞察、科学技術への探究心は、いささかもひるむことはありませんでした。また地元の好誼の者たちも、ひそかに象山のもとに通い、なにくれとなく面倒を見ました。
頃は幕末・維新へと突き進んでいた時代であり、歴史の埒外に象山はを放置しておく時勢ではなかった。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎などが訪れました。攘夷論者たちも難局打開のため、像山の炯眼、助言を仰ぎ、両藩への招請を求めて来ました。しかし開国論に傾いていた象山は拒否しました。
終生の思想と実践(東洋道徳、西洋芸術)
文化文政時代から弘化時代(1803~1847)にかけて、日本の沿岸にはしばしば欧米船が出没していました。そんな情勢の中で、英国と清国(中国)の間でアヘン戦争(天保11年・1840)が勃発しおました。
清国は英国の豊富な戦力のもとに、たちまち敗北を喫しました。佐久間象山はこの報に接して、欧米列強の、つまるところ砲艦外交に強烈な衝撃を受け、清国に日本の命運を重ねて、深刻な危機感を抱きました。日本が植民地として、列強の属国に堕してしまうことを深く憂えたのでした。
列国の強靭な軍艦・大砲・火器類を前にして、日本もそれらに対抗するには、極力、先進の大砲・銃砲などを整備することが愁眉の急であったし、ぜひとも列国並みに技術・文明を向上させねばならないと、象山は力説しました。その思想的理念が、「
東洋道徳、西洋芸術」でした。(この芸術とは、科学技術をも含みます。)
もっとも象山が「東洋道徳、西洋芸術」を他者に表明するのは、40歳を過ぎてからだった。それまでに培った思想と実践に、象山は大いなる確信と自負を抱いたことでしょう。
次回は「殖産興業の試み」から紹介します。
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