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千寿の楽しい歴史
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黒船と象山の門弟たち・千寿の楽しい歴史
黒船と象山の門弟たち    佐久間象山と像山神社より

再び象山の姿が江戸府中に見られるようになるのは嘉永3(1850)年です。

この40歳の時期に「象山塾」を開き、主に砲術を講義した。門下には松代藩はもとより、幕末史で華々しく活躍する俊英たちが集いました。勝海舟、津田真道、小林虎三郎、吉田松陰、宮部鼎蔵、河井継之助、加藤弘之、坂本竜馬、橋本左内、真木和泉・・・・・・・

嘉永6年、ペリー提督が軍艦4隻をひきいて浦賀に来航しました。ペリーは開国と通商を求める大統領国書を携え、幕府に強引に迫りました。いわゆる、「幕末」はここに始まります。

象山は藩命によって、小林虎三郎、加藤弘之など門弟たちとただちに浦賀に向かいました。遅れて吉田松陰も後を追います。象山は勝海舟から入手した望遠鏡で艦隊の状況を視察し、その艦船の規模、砲門の数を調べました。

ペリーは実戦態勢を整えていました。それを目前にして象山は覚りました。沿岸に築いた砲台場はすべて役に立たぬ、戦端が開けば幕府は敗れること必定と。すでに幕府に提出した海防策「急務十条」は遅きに失しました。

松代藩だけでも江戸防衛に立ち上がるべきだと、象山は江戸家老の望月主水に進言します。門弟の蟻川賢之助(松代藩士、吉田松陰・小林虎三郎に次ぐ象門の高弟)を大砲掛に推しました。さらに老中首座の阿部正弘(福山藩主)、海防掛の牧野忠雅(長岡藩主)に直談判し、防備の必要性を理解させました。まさに面目躍如の象山の働きぶりでした。こうして象山は軍議役に任命されました。

しかし、ペリーが浦賀奉行に白旗を”贈呈”したことは、武力行使も辞さないという堅い意思の表明であり、結局幕府はペリーの脅威に抗しきれず、アメリカ大統領国書を受理しました。

嘉永7(1854)年1月14日、再びペリーの艦隊は軍艦7隻で浦賀沖に来航し、羽田沖まで侵入しました。条約締結が主眼で、幕府との外交交渉が、横浜に応接所を設け開催されました。小倉藩とともに松代藩も警備を命ぜられ、象山は400人の藩兵を統率する軍議役を務めました。

日米交渉で、ペリーは下田(と箱館)の開港を迫り、幕府も首肯しました。これに異義を唱えたのが象山でした。下田は江戸から遠隔の地であり、戦略的に危惧を抱いたからです。

下田開港策を撤回させようと象山は門弟の小林虎三郎に、海防掛の牧野忠雅(長岡藩主)宛てに建白書を書かせます。しかし虎三郎は一介の遊学藩士、その出過ぎた行為に帰藩、謹慎を命じられました。

幕府はアメリカと和親条約を結び、下田・箱館の開港を受諾したが、再び象山は悲運に見舞われます。吉田松陰がペリー艦隊に乗船し、海外の文明を見聞しようと密航を企てたのです(下田踏海事件)。

事は幕府に発覚し国禁の罪で入獄の身となります。師の象山も教唆犯として疑われ捕らえられました。2人はに下された判決は、それぞれ萩、松代への蟄居でした。裁きの場で2人は顔をあわせたが、ただ軽く会釈を交わしただけであっという。これが2人の永訣の場となりました。

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象山の門弟たち

勝海舟

黒船と象山の門弟たち・千寿の楽しい歴史_a0137997_2029064.jpg1823~1899年。通称は麟太郎。

号の海舟は、象山揮毫の「海舟書屋」に因みます。長崎海軍伝習所で海軍全般に学び、後に海軍操練所(神戸)を設立しました。軍艦奉行を務める。象山の蘭書入手に尽力したり、海外事情を伝声、象山の科学知識獲得に労を惜しまなかった。

1860年、咸臨丸を指揮、幕府使節として渡米する。1867年12月の王政復古後、西郷隆盛と会談、江戸城を無血開城に導いた。妹順子は象山に嫁いでいる。


吉田松陰

黒船と象山の門弟たち・千寿の楽しい歴史_a0137997_20385979.jpg1830~1859年。長州藩士。通称は寅次郎。

下田踏海事件で故郷の萩に蟄居。自邸に松下村塾を開く。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など維新の英傑たちを育てた。安政の大獄で死刑の身となる。

死去した松蔭は象山宛てに手紙を遺していた。いわば松蔭の遺書である。手紙をたずさえ訪れた高杉晋作はに、象山は「松蔭はあせりすぎた」と語り、落涙したと伝わっている。


小林虎三郎

黒船と象山の門弟たち・千寿の楽しい歴史_a0137997_2049014.jpg1828~1877年。長岡藩士。

松蔭とともに「象門の両虎」と呼ばれた。幕政に進言して帰藩謹慎の身となる。後年、三根山藩主から送られた「米百表俵」で国漢学校を設立、長岡の教育発展に貢献する。


蟻川賢之助   

1831~1891年。松代藩士。本名は直方。吉田松陰・小林虎三郎と共に象門の三傑と称された。

象山蟄居の間、江戸で蘭学、砲術調練法を教授する。医術も心得た。幕府の洋銃取調掛、講武所砲銃教授を務めた。元冶元年、藩主真田幸教の京都警護のため従った。明治期戊辰戦争で活躍する。

続きます。






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by kusennjyu | 2013-12-21 21:01 | 歴史学習会 |Topに戻る