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高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構
高句麗から鞠智城へ  西谷正氏講演   平成25年12月22日(日) 九州歴史資料館にて  

鞠智(きくち)城跡の遺構    熊本県教育委員会資料より。

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鞠智城跡からは、国内の古代山城では唯一の発見例である八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡、銅像菩薩立像や木簡をはじめとする様々な重要遺物が出土した貯水池跡、3カ所の城門跡、土塁跡などの遺構が検出されました。

建物跡には、掘立柱建物、礎石建物があり、これらの建物は倉庫や兵舎などがあったと考えられています。

貯水池跡では、木材を蓄えるための貯木場や水汲み場などが見つかっています。

城門跡からは、門の礎石や石積みなどが発見されました。

土塁には、「版築(はんちく)」という当時の朝鮮半島の先進技術が使用されていることから鞠智城にも百済の亡命貴族が関わっていたことが考えられます。

八角形建物跡と復元建物(鼓楼)

高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構_a0137997_635864.jpg高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構_a0137997_641158.jpg


二聖山城・建物配置図   以下3点は講演資料より

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百済の二聖山城には、九角建物址(天壇)と八角建物址(社稜壇)及び長方形建物址(信仰遺跡)という遺跡が発見されています。

百済扶余の防御体制

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大陸からの脅威に対抗する防御施設の建築には、百済からの亡命者が中心になった。そのモデルとして、彼らの脳裏には、百済の故郷扶余のそれがあったに違いない。

扶余山城

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左~貯水池あと貯木場    右~版築土塁

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土塁址、貯水池などは鞠智城築城にも使用されている。

高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構_a0137997_6364925.jpg銅像菩薩立像

やや丸みのを帯びた顔立ち、三面宝冠、垂髪、天衣(てんね)などが良く表現されている。へその前で舎利容器と考えられる持物を捧げ持ち、やや腹部を突き出した姿勢は横から見ると優雅なS字曲線を描いています。

その大きさ(12.7cm)から、念持仏と考えられ、百済の高官が築城の指揮などで訪れた鞠智城に持ち込んだだものと思われます。

左~木簡  右~軒丸瓦

高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構_a0137997_1141166.jpg高句麗から鞠智城へ 西谷正氏講演2・鞠智城跡の遺構_a0137997_11413596.jpg木簡~墨書で「秦人忍?五斗」と書かれている荷札木簡です。上部には左右から切込みが入れられています。この切り込み形状は、大宰府管内の木簡に見られます。 

軒丸瓦~鞠智城からは、平瓦、丸瓦、軒丸瓦が出土しています。その中でも軒丸瓦には、単弁八葉蓮華文と呼ばれる文様が施されています。この文様は、朝鮮半島の瓦の様式を受け継いでいるものと考えられています。


鞠智城の変遷

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ありがとうございました。終ります。
by kusennjyu | 2013-12-27 12:03 | 歴史学習会 |Topに戻る