公武合体へ還らぬ道・佐久間象山
象山は松代(長野市)で長い蟄居生活に入った。(安政元年から9年間)
幽閉中、洋書を読む、洋学・軍学・砲術の講義、藩士の来訪、外部者との文通など、閉塞された環境にもかかわらず、象山の知的探究心は衰えなかった。
しなかった。藩庁では象山の勝手な振る舞いに困惑し、幕府にお伺いを立て、象山の身辺警護がより強まった。にもかかわらず象山は、国内情勢、幕閣たちの動静など情報収集や門弟たちとの文通を止めはしなかった。勝海舟が長崎海軍伝習所に勤務したこと、また彼からオランダ書を入手していたこと。蟄居中の吉田松陰から下田踏海事件の推移を記した「
幽囚禄」さえ届いていた。
ハリスが下田に着任し、修好通称条約締結を目的に江戸城に入り(安政4年)、将軍徳川定家に面会する。老中首座・掘田正睦は条約締結に傾いた。象山はアメリカ公使の江戸駐在案を危惧した。諸藩の大勢も条約反対の態度であった。ここで大老・井伊直弼が締結を断行する。幕府と朝廷・攘夷派は反目した。井伊直弼は強権を振るい、いわゆる「
安政の大獄」を起こす。この件で
吉田松陰も死刑させられた。
象山は幕政の行方を座視するわけにはゆかなかった。
象山にとって開国は不可避の策で、海外列強の技術・文明を移入し、日本を列強と対等なレベルに向上させねばならない。攘夷を叫ぶならば、それを達成した上での攘夷であるべきであった。
公武(朝廷と幕府)の調和を図り、天皇の命による開国が必要であった。天皇を戴き新たな統一国家を構築せねばならない。土佐藩、長州藩からの招聘を断ったのも、彼らの攘夷倒幕を読んでいたからである。
このような経緯の中で、象山の赦面の動きが出て、晴れて自由の身となった。
薩英戦争などの敗北で、朝廷も攘夷策からの転換を図る。幕府内では、薩摩藩・会津藩、また中川宮たちによって、公武合体派の政変も起こった。
京都は、今や幕末動乱の震源地となっていた。長州軍と幕府軍は一触即発の状況であった。そんな京都へ、幕府の政治顧問に就いていた象山に、上洛の命が下った。象山は公武合体を実現する好機到来と確信した。
京都では、山階宮、中川宮などと会見し、朝廷に開明、開国の必要性を理解させようと、持論を展開した。しかし象山のこのような動向は、尊王攘夷の過激派にすべて察知されていたのである。
象山が天皇の彦根、さらには江戸への遷座、遷都を計画していた行動が、とりわけ攘夷派を刺激していたことが災いとなった。
元治元年(1864)7月11日の夜、象山は山階宮邸を辞して、馬に乗り帰路についた。高瀬川沿いの寓居へ戻ったところで突然刺客たちが現れ、像山は抵抗する暇もなく惨殺されたのであった。
享年54歳であった。
松代藩では、藩主・真田幸教が率いる藩兵200人が、京都警護のため滞在していた。藩士の北沢正誠は象山暗殺の報を知るや、ただちに寓居を訪れ蔵書、文書類をまとめ、散逸を防ぐため勝海舟に託したのであった。
象山は明治維新を迎えることなく、志半ばでこの世を去ったが、幕末史の黎明に果たした業績は、日本の近代史にも深い影響を刻んでいることを忘れたくない。
終ります。
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