弘安の役と大蔵姓田尻氏
健治元(1275)年5月、鎌倉幕府は社世忠以下の使節4人が来日したので、鎌倉に召し出し龍の口で惨殺した。
幕府は元の襲来に備えて、翌2年3月より工事を始め、鎮西に所領を有する50余名に、地域を割り当て労役を課して、筑前の沿岸に石垣を築造させた。少弐経資を工事の監督に任命し、地頭・御家人にこれを伝え、同月20日、博多で会して持ち場を振り分けた。
領主の数額により、一段ごとに一寸を負担させた。外征の将士はこれを省き、外敵防衛に専念させて、労役などを免除させた。
『
薩藩奮記』によれば、「工事一丁約百文強、一里に三貫五百文を要した」とあり、幕府は半年の予算で竣工させたが、弘安3(1280)年まで5年の歳月を費やした。
また、『
北肥戦誌』によると、(カタカナはひらがなに変換しています。)
「加様に折々蒙古襲来して合戦に及び、如何にも難儀なりしかば、異国警固のため、関東御下知をへらし(減らし)、九州の武士に課役を以て、健治2(1276)年3月より博多ノ津に石築地を構へらる。
その所、博多冷泉津より北の方三、四里が間を高さ四、五丈に大石を畳(つ)み、屏風を立てたる如くに事々敷築く・・・・・(略)・・・・」
5月、東路郡は、蒙古・高麗・漢の三国連合軍4万人、戦艦900艘を率い合鵜浦(がっぽ)港を発向した。
6月18日、江南軍は、戦艦3500艘、兵10万余りで慶元を立ち、東路軍に遅れて平戸島に到着した。東路軍は平戸で江南軍と合流し、6月27日、鷹島に移動した。
日本軍は北部九州より、肥前国鷹島にかけて沿岸を固めていた。
7月1日、前夜より暴風雨が吹き始め、夜半は沈没し、または船が破損した。軍兵は10万余人の溺死者を出した。
蒙古襲来絵図 鷹島での掃討戦で元船に乗り込む。
弘安4年、田尻種重と子の種光が戦死する。
弘安9年、田尻種重の子種長が薩摩国鹿児島郡職のうち、十分の一の恩賞を宛てがわれた。
この勲功者の中に田尻一族の米生又三郎種守・九郎種有の名が見える。
蒙古襲来の文永の役で田尻種重が軍功を立て、三潴庄藤吉村の地頭職に任じられている。
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