2014明治の大川の歴史(日本セメント株・三潴銀行)

明治の大川の歴史(日本セメント株・三潴銀行) 「おおかわの歴史(平成23年発行)」より。
明治30年頃の大川町

1・日本セメント株式会社大川工場
明治31(1897)年に九州セメント株式会社が設立され、小保浜口に工場がつくられました。セメント工場の高い煙突は大川の名物でした。工場は若津港に隣接し、運輸の便に恵まれていました。
石灰岩は熊本県八代から運び、粘土は筑後川沿岸から採取し、燃料の石炭は大牟田から運び込みました。日本の近代化に伴い業務が拡大し、日本セメント株式会社と合併し、日本セメント株式会社大川工場と名称を改めました。販路は東京および九州・沖縄・朝鮮半島・台湾などに拡大していきました。
日本の近代化を支えてきたセメント工業でしたが、関東大震災の後の不景気でセメントが売れなくなり、日本セメント株式会社大川工場は閉鎖されました。
佐賀セメント(明治30年頃の操業) ⇒ 豊国セメントに改称する。
2・三潴銀行
大川橋のたもとに二階建ての明治洋風建築の建物があります。旧三潴銀行本店です。
三潴銀行は、明治27(1894)年に大川市の酒造会社「清力(せいりき)」の事務所の横に設立された鐘ケ江銀行がはじまりです。
明治29(1896)年、鐘ケ江銀行は若津へ移転し、三潴銀行と改称しました。明治42(1909)年には、二階建て洋風建築の本店を現在地に建築しました。
棟梁は「大川市清力美術館(福岡県指定文化財)」を建てた中古賀の名工・筬島傅太郎(おさじま・でんたろう)と言われています。その後、三潴銀行は、福岡銀行の前身である十七銀行に合併されました。
現在、旧三潴銀行本店の建物は大川市の文化財として保存されています。
三潴銀行本店 大川市大字向島2367番地


3・渡船場
若津には、明治14(18881)年操業の渡船場があり、対岸の諸富を結んでいました。この渡船場は佐賀と筑後地方を結ぶ重要な渡船場で、昭和31(1955)年の大川橋と諸富橋が開通するまで利用されていました。
4・明治の若津の繁栄
大川町の人口 11,000人(三潴郡一の市街人口) 佐賀市・久留米市は2万~3万の人口。
大川町は明治22年4月1日に向島村、榎津町、小保町、酒見村が合併して出来ました。
明治時代から昭和時代の初期にかけての若津は警察署、郵便局、造船所、銀行、商社、商店、旅館などが軒を並べる繁華な河口の港町でした。
続きます。
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