鐘崎寛吾(かねざき・かんご)について(三郎の父)
鐘崎寛吾さんは通称を良順(りょうじゅん)と言い、帯雲(たいうん)と号されていました。青木に住まい、天満宮の社僧(しゃそう)となり、後日、大宰府天満宮安楽寺の社僧となられました。
その後、肥前の平戸候より、礼を正して呼び迎えられ、寛永4年(1851)年頃に平戸に行き、樹光寺(長崎県平戸市)の住職となり圓心と名のり、手厚く扱われて、小野貞さんを娶り、元治元(1864)年に長男の煕(ひろし)、慶応3(1867)年に長女のハツセが生まれた後、帰郷されて明治2(1869)年に次男の三郎が生まれたと聞いています。
明治になって神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が出され、廃仏稀釈が起こった。良順さんは大僧正であったと祖母ハツセ(鐘崎三郎の姉)や祖母カツより常日頃、聞かされていました。青木の実家のタンスの引き出しには達磨(だるま)や山水などの水墨画が一杯あったことを記憶しています。 松・竹・梅のそれぞれの刺繍がある裲襠(うちかけ)3枚もありました。
(角隆恵さん語り)
①鐘崎寛吾 明治9年11月15日、長崎にて没す。享年61歳。(圓心院是實日寛居士)
②寛吾の妻:貞 (小野氏出身) 明治11年11月2日没。 小野家は三文人の一家です。
第三十代敏達(びだつ)天皇の皇子・春日皇子の子。 大徳冠妹子(遣隋使)四世小野道風の子孫(筑前国十二大区詞掌拝命)。 平戸松浦藩主煕乾斉候の側室。平戸にて圓心に禅譲される。
(1)久留米藩時代
僧名 良順・圓心 号 帯雲(書画)灌圃と号す。
住所 代々、久留米市城島町上青木の苔梅寺(ていべいじ)社僧 上青木 苔梅寺 梅樹院(住居)
(2)大宰府時代 大宰府天満宮(筑前安楽寺天満宮)の社僧
(3)平戸時代 樹光寺(平戸松浦候の菩提寺の住職)
この間、松浦熈(ひろむ)乾斉候の眷遇を受ける。松浦候の命により太宰府天満宮の神幸図(御神幸式絵巻)を画いた。
①嘉永の本 嘉永6年(1853年) 縦38.5cm 横1475cm 1巻



②元治の本 元治元年(1864年) 縦38.9cm 横2974cm 1巻 色彩豊かに行列と群集の様子が描かれている。 2巻とも樹光寺圓心(鐘崎寛吾)作 (大宰府天満宮宝物殿所蔵)
『天神絵巻 大宰府天満宮の至宝』に載せられています。



その後、およそ十数余年、弘化、平治、慶応年間と平戸樹光寺にあり、明治になって還俗して郷里に帰る。一家を挙げて長崎へ行く。
社僧 神仏混淆時代(神仏を同じ所に祀って区別しない)、神宮寺などで仏事を修した僧。常に,神職の上位にあって権威を持ち、中には密かに武器を蓄えて、ややもすると争いを起こすものもあった。その地位には別当・検校・勾当の階級があった。
大僧正(だいそうじょう) 祖母から寛吾曾祖父は大僧正であったと聞かされていた。
僧官位の一つで最高の僧官位を僧正という。僧徒の濫行、不正を正す職として、大・正・権の別があった。
神宮寺(しんぐうじ) 神仏混淆時代のあらわれとして神社に隷属して置かれた寺院。
廃物希釈(はいぶつきしゃく) 仏教を排斥し、釈迦の教えを棄却すること。仏教を迫害すること。
日本では明治元年(1868年)に神仏分離令を出して、神仏と寺院を分離した。その結果、両者に争いが起こったが、寺院が焼かれ、経文が捨てられるなど仏教側の損害が大きかった。
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